1月に民社党OB会が開かれる。党歌斉唱のあとに物故者への黙祷が捧げられる。平成18(2006)年のときは、機関紙局の下村孝明君が隣りだった。「ぼく、来年はいませんから」「エッ、なぜ?」あまりに唐突だったので、聞き返してしまった。「来月に手術なんです(以前にも手術している)。今度はやばいと思うんで」。どこから見ても、元気そうなのに超弱気である。「馬鹿なことをいうなよ。子供も小さいじゃないか。元気を出せ」と叱咤した。
ところが、その年の2月の寒い日に帰らぬ人となった。50歳であったか。結婚が遅かっただけに遺児が2人。小学低学年か幼稚園であっただけに、参列者の涙を誘っていた。
下村君は大学の後輩である。鉄労本部に勤めていたのだが、ご存知のように解散となり、民社に移った。それから新進、自由、民主と渡り歩く。「君の行くところは、どこも解散だね」と冷やかしたところ、露骨に嫌な顔をされた。民社でも新進でも、私の部下だった時代がある。旧民社の仲間であり、後輩でもあるだけに、彼には相当無理を言ったのではないか。たいして文句をいうわけでなく、注文に淡々と応えてくれた。時代劇が大好きで、邦画などを録画していた。彼がまだ結婚していないとき、千葉の自宅に遊びに行った。風呂を沸かしてくれ、刺身や鍋、フライで歓待してくれた。「退職後は、これを見て暮らすんです」と大量のビデオを収めた棚を見せられる。知恵蔵、右太衛門が並んでいた。
学校でいえば、佐藤寛行さんは大先輩である。党本部に入ったとき、機関紙部長をしておられた。河合栄治郎門下生を中核とする社会思想研究会の機関誌の編集者でもあった。寛行さんが40になったとき、退職されて、労働評論家として自立される。執筆者と編集者としての関係となり、交際が続いた。東辺保久のペンネームで『革新』誌に連載された「各党機関紙・誌点検」は、他党の機関紙編集者にも「フェアに論評してくれている」と好評であった。赤坂の済南飯店(当時)にも何度か連れていかれ、中国家庭料理をご馳走になった。佐藤さんは、中国山東省済南の出身であった。
季節はいつであったか忘れたが、曇り空のある日、銀座でばったり出会った。「これから癌研に検査に行くんだよ」とおっしゃる。「大丈夫ですよ。たぶん胃潰瘍じゃないですか。また飲みましょう」と無責任なことを言って別れた。
9月のある日、共通の友人であるAさんの奥さんが亡くなられた。葬儀のため郊外の駅に降りたら、佐藤先輩が立っておられた。「今度は僕だからね。年内かな。12月が危ないんだ。受付けをやってもらうよ」とおっしゃる。「自宅療養中」とも聞いたので、「近く梅澤(昇平)さんとお見舞いにお伺いします」と答えた。
そのくせ、忙しさにかまけて見舞いがかなわなかった。11月末には容体が思わしくないという話を聞いた。あわててご自宅に電話をすると、奥さんから「話しはできないでしょうが、お待ちしております」と言われた。12月16日にお伺いする約束をした。
当日の朝、奥様からお電話があり、「主人は本日、亡くなりました」と言われる。ああ〜である。新宿のお寺経営のホールで、通夜・葬式が無宗教式で行われた。ご自身が会場の下見をやられ、司会、受付けなどの役割分担や式にかけられるクラシック曲までが、事前に決められてあったという。
清水良治さんの場合も、壮絶である。徳島県出身で、民社党本部では国会対策委員会事務局勤めが長かった。記者対応も仕事の一つで、若い頃から政治部記者たちとよく飲み歩いていた。郷里徳島で2回国政選挙に挑戦した。広報器材などの制作で協力した。
刀折れ、矢尽きた形での2度目の敗戦のあと、党本部に顔を出した。「アラッ」と思わず大きな声をあげてしまった。もともと黒い顔が、一段とドス黒く、しかもカサカサしている。「病院、行ったらよいですよ」と言った。「そうか、そんなに悪く見えるか。明日にでも行くよ」といつになくしおらしかった。翌日、本当に病院に行ったらしい。即刻、入院となった。2、3週間経って「いよいよ危ないんで‥。明日に死ぬと医者は言っています。見舞いをするなら早くに」との連絡が近親者からあった。夕方、仕事を早めに切り上げて、病室を訪ねる。顔色は黒く、昔の艶はなかったものの、当人の意識ははっきりしていた。
「今日は、やけに見舞いが多いんだ。俺、いよいよ駄目なのか。死ぬのか。教えてくれ。お前なら、本当のことを言ってくれるだろう」
「何、馬鹿、言っているんですか。そんな憎まれ口をたたく元気があったなら、大丈夫ですよ。直ったら、また飲みに行きましょう」と私。
翌朝、佐々木委員長の見舞いを受けてからすぐ後に、帰らぬ人となった。医者が言っていた通りの展開だった。翌年であったか、大阪出張となった佐々木さんは徳島まで足を伸ばし、清水さんの墓に参ったと聞く。佐々木直系を任じていた故人は喜んだことだろう。
佐々木直系といえば、党本部の広報副局長から永末英一委員長の秘書に転じた畑昭三さんも思い出深い。ご本人も何度か選挙に出ている。武運つたなくではあったが、旧河上派系であり、社会党にとどまっての出馬であったなら、当選していたのかもしれない。主義に殉じた一人である。声は大きく、ネアカ系であった。民社OB会の会長も務めていた。
平成17年の夏、退院したが癌が進行中と聞いた。早速、錦糸町のお宅を訪ねた。ベッドに腰をかけ、ゆっくり話しをかわした。いつもの勢いはないものの、夏を乗り切れば大丈夫だと思った。1週間後に訃報を聞いた。今度は、見舞いだけはできたなと思った。
当方が『サンダル履き週末旅行』(竹内書店新社)を出版したとき、地元の書店で買い求めてくれ、便箋3枚にわたる感想文をいただいた。「サンダルを読んであなたの博学に感服しました」との世辞のあと、「最低五年、十年がんばって下さい。『日本旅行作家』として大成されることを祈っております」と書かれてあった。
党本部職員は、ほかに何人も亡くなっている。裏方の死であり、親族と友人だけのひっそりした弔いが多い。その中で、竹林喬衆院事務長の葬式は、巣鴨の真性寺で厳かに執り行われた。亡くなってすぐ、自宅に弔問したときである。奥様に「ふたりでよく映画の話をしていたんですよ」と言ったら、「あの人、ビデオが欲しいと言っていたんです。でもマンションのローンを返すのが先だからと反対したんですよ。こうなると分かっていれば、映画を存分に観てもらいたかった」と涙ぐまれた。4半世紀前のビデオデッキは、高かったのである。ご遺体は、エレベターの中でお棺を立てて運んだ。
「寺井君は15歳年下だから、同じ道を歩むと思うよ」と言われていた当方だが、先輩が亡くなられた50歳はとうに過ぎ、「大成」するわけでもなく、ただただ馬齢を重ねている。
※前号本欄で「南ベトナム元司法大臣の証言もある」と書きながら、書名が抜けていました。明記します。友田錫著『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(中央公論社)、チュオン・ニュ・タン著、吉本晋一郎訳『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(原書房)で、チュン・ニュー・タンとチュオン・ニュ・タンは同一人物です。お詫びと補筆まで。(筆者)