境内にある個人美術館

― 「鉄斎美術館」を訪ねて ―

                      人間科学専攻 6期生・修了 柏田三千代 

  
 私が「鉄斎美術館」に興味を覚えたのは、由緒ある清荒神清澄寺の境内に、何故個人の美術館があるのかが不思議であったからである。全国的に見ても境内に個人の美術館がある神社仏閣は少ないであろう。では、何故境内に個人の美術館があるのか、富岡鉄斎とはどういう人なのか、私たちに何を語りかけるのかを知りたいと思い、兵庫県宝塚市にある「鉄斎美術館」を訪ねることにした。

1.清荒神清澄寺と「鉄斎美術館」
 清荒神清澄寺は平安時代の初期、宇多天皇の創意による理想の鎮護国家、すなわち、諸国との善隣友好を深めて戦争のない平和な社会、万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建される。その後、源平の兵火により灰燼には帰したが、勅命により建久四年(1193)源頼朝によって再興されたのである。現在は火の神、台所の神として人々よりあがめられ、各種の現世利益を祈願される参詣の方が多く訪れている。

鉄斎美術館

 清荒神清澄寺の境内にある聖光殿「鉄斎美術館」は、清澄寺の第三十七世法主光浄和上の当時「名物といえば歌劇しかなかった宝塚に、宗教と芸術文化の花を咲かせる理想の聖域を創造したい」、「宗教と美術を一つに結ぶ鉄斎の平和精神を世界に広める」という念願を持っていた。その祈願を第三十八世法主光聰和上が継承し、昭和50年4月に富岡鉄斎の作品を広く公開展示することを目的として、清荒神清澄寺の境内に開館された。
 「鉄斎美術館」の建築概要は、敷地面積1915.2u、建築総面積1174.8u、寄せ棟造り高床式平屋建で展示室床面積235.9u、展示室天井高5.1uである。美術館の正面玄関の扁額「聖光殿」・門標「鉄斎美術館」の文字は、書家森田子龍によって書かれたものである。また、左右の前庭には鉄斎ゆかりの地、貴船・鞍馬・天竜・伊予の各名石を配している。 清荒神清澄寺所蔵の鉄斎作品は絵画、書、鉄斎が絵付を施した器物、手造りの陶器など器玩と呼ばれるものや、先人の構図、筆法などを学びとるために鉄斎が模写した粉本など、晩年の傑作を中心に千余点を、年4〜5回の企画展として開催している。また、入館料の全額は、美術図書購入基金として宝塚市に寄付されている。

清荒神清澄寺

2.富岡鉄斎
 富岡鉄斎は天保7年12月19日に京都三条通新町東、南側、法衣商十一屋伝兵衛、富岡維叙の次男として生まれる。早くから学問の道に入り、勤王思想の持ち主だった鉄斎は、明治維新前には学塾を開いていた。鉄斎には国学の野之口隆正、漢学の岩垣月洲、陽明学の春日潜庵のほか、叡山の学僧、羅渓慈本ら多くの師があったが、鉄斎の人格形成にとって大きな意味があった人物は、若い頃に薫陶を受け、精神的に大きな影響を受けた歌人の大田垣蓮月であった。蓮月尼が鉄斎に宛てた書簡には、再三にわたり「何事も御自愛あそばし、御機嫌よく御長寿あそばし、世のため人のためになることを、なるべきようにして、心しづかに、心長く御いであそばし候ようねがい上参らせ候」等と論し、国事に奔走し血気にはやる鉄斎の気持ちをなだめている。また、蓮月尼が親しい知人に宛てた書簡には「とかく人は長生きをせねばどうも思う事なり不申、又三十にてうんのひらけるもあり、六十七十にてひらく人も御ざ候事ゆえ、御機嫌よく長寿され候事のみねがい上まいらせ候」と書かれている。このことは、当然鉄斎にも語られたと思われる。
 鉄斎が絵を学びはじめたのは、19歳頃からであった。その師は窪田雪鷹と大角南耕で、ともに南北折衷的な画風であった。しかし、鉄斎が絵を習うようになったのは、学問で身を立てるもの、つまり文人の素養の一つとしてのことであった。したがって、雪鷹・南耕以外にも南画の大家、小田海僊や、大和絵の大家浮田一宸轤フ教えも受け、大雅や竹田などの南画、狩野派、写生派や浮世絵から大津絵まで、実に幅広く学んでいた。この幅広い学びが鉄斎独自の画風を生み出し、社会的に高い評価を得ることになる。
 しかし、鉄斎は画の注文があろうとも生涯自らを文人として通し続けた。文人の画を尊び、董其昌の「万巻の書を読み、万里の道を行く」との理想を終生自らの銘とした。鉄斎は多く書物を読破し、北は北海道、南は鹿児島まで訪ね歩いた。鉄斎は常々、「わしの絵を見るには、賛を読んでくれ」と言っていたという。それは自らの絵を文人画として、決して意味のない絵は画いてはいないということだろう。鉄斎は最晩年まで精力的に絵を画き続け、大正13年12月31日に89歳で永眠する。

3.鉄斎の祝慶画
 私が「鉄斎美術館」を訪れた企画展は、祝慶画(平成19年1月15日〜3月18日)であった。仙境図や神仙図、神仙が住むという蓬莱山の図、七福神の図、寿老人や福禄の図など祝慶の画に相応しい吉祥にちなむ作品が展示されていた。鉄斎の絵には躍動感があり、どれも素晴らしい作品ばかりである。また、鉄斎の賛を読むことで、絵の素晴らしさだけでなく、鉄斎の人に語りかけるような思想にも触れることができる。鉄斎の「寿老人図」の賛には「福禄、寿先と為す」と書かれている。それは、人生において、まず大切なのは長寿で福と禄がこれに次ぐという意味をなしている。また、「寿老人像」の賛では、89歳の鉄斎が正月を迎え、孫が酒をすすめて笑い声がしきりである。歳をとってもまだ筆をふるって遊戯の絵を描くことができる。そこで南山の寿老人を描いたと書かれている。この「寿老人像」では、鉄斎が理想とする生き方を実践できたことへの喜びが伝わってくる作品である。寿老人、すなわち、それは鉄斎自身である。
 私は鉄斎の賛を読み、絵を眺めながら、寿老人とは何であるか、どのように生きることが寿老人へとつながるのかを考えた。私は長寿だけでは寿老人にはなれないように思う。しかし、長寿を第一と考えた鉄斎は寿老人となった。そこで、鉄斎が語る長寿とは何であるかを考えた。鉄斎の語る長寿へのこだわりは、若き日の鉄斎に大きな精神的影響を与えた蓮月尼の思想と類似している。蓮月尼が鉄斎や親しい知人に宛てた書簡も含めた上で、長寿について推測すれば、自分自身を大切にし、長寿をしなければ何も成すことはできない。それゆえ長寿が一番なのである。生きる上で焦らず世のため人のために尽くせば、おのずと道は開けるであろうし、その行く末には幸せを感じ取れる自分と出会うであろう。その幸せを感じ取れる自分と出会う瞬間、すなわち、鉄斎と同じように寿老人の自分に出会うことになるのである。
 今回、私は「鉄斎美術館」を訪れて鉄斎の画を鑑賞したが、まさに文人画家だと思わせるほど奥の深い作品の数々であった。鉄斎の画から語られるものこそ、人としての「理想の聖域」なのだろう。

鉄斎の祝慶画

参考資料:



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