カントの認識論(中)

                       人間科学専攻 8期生 川太 啓司

  

2、分析的判断と綜合的判断

 純粋理性の仕事の大きな部分は、我々がすでに持っている様々な概念を分析するところにあり、概念の分析は我々に多くの認識を与える。カントは「つまり我々の理性の仕事の大きな部分は恐らくその最大の部分が、我々のすでに持っている種々な概念を分析するところにある、ということである。概念の分析は我々に多くの認識を与える。」(9)と『純粋理性批判』上で述べている。さらに分析は我々の概念を拡張するものではなくて、ただこれを分解するのである。そして認識はこれらの概念を解明するだけである。分析は我々の概念を拡張しないでただ分解するだけであり、この分析的方法は実際にもア・プリオリな認識を与えるのである。
 カントは「理性はすでに与えられている概念に、これとはまったく無縁のしかもア・プリオリな概念を付加する。」(10)と『純粋理性批判』上で述べている。ある概念のうちに含まれているものをA、概念の外にあるものをB、そしてAの判断を分析的判断と呼びBの判断を綜合的判断と言われる。述語と主語との結びつきが、同一性の原理によるものが分析的判断であり、そしてこの結びつきが同一性でないものは綜合的判断と呼ばれる。
 分析的(analytich)判断を解明的判断、また綜合的(synthetisch)判断を拡張的判断と呼ぶことができる。カントは「経験的判断はその本質上すべて綜合的である。」(11)と『純粋理性批判』上で述べている。
 こういう判断をカントは、先験的(transzendental)判断と呼びこれこそ心理的判断としたのである。そこで普遍性と必然性を持った先験的綜合判断は、いかにして可能であるかという問いになる。理性に基づく一切の理論的学には、ア・プリオリな綜合的判断が、原理として含まれ数学的判断はすべて、綜合的判断であり経験的判断ではないのである。
 だから形而上学は人間理性の自然的本性から言って不可欠の学であり、そしてこの学にはア・プリオリな綜合的認識が含まれるとしているのである。さらにカントは「形而上学の旨とするところは、概念を分析的に解明するのではなくて、我々が認識をア・プリオリに拡張するところにある。」(12)と『純粋理性批判』上で述べている。
 カントは、古い形而上学を否定せず、そうではなくて人間が形而上学的なものを理論的、科学的に捕らえようとすることが間違いだとしているのである。形而上学的なものを理論的な認識の対象にするところに、人間の限界と独断があるというのである。
 形而上学的なものは、感性的な直観(Anschauung)の対象ではありえないから人間はそれを理論的に、認識することはできないのである。感性的なものにのみ通用する人間のカテゴリーを、感性を超えたものに適用することはできないのである。人間は神と異なり我々人間に、現象してくる範囲に関してだけ知りうるのである。現象の源泉や現象の奥にある物などについて、理論的に分析することは人間の限界外のこと、であり人間の越権なのである。これまでの古い形而上学は、こういう越権を犯していたのであるとしている。しかしカントは我々のほかに、我々から独立して自然の対象があるのではなくて、我々がそういう対象を作り上げていくのである。
 我々の側にある先験的な自然の対象を、経験的に作り上げていくのであってその逆ではないのである。先験的な枠というのは、生まれながらにある枠と言う意味ではない。むしろ経験的な素材を受け入れ、まとめ上げていく形式であり、型であり枠であり能力である。経験そのものを作り上げていく型、従って自分自身は経験的なものではなく、しかも経験がある限り、いつでもそこにまずもって考えられなくてはならない、根本的な形式のことである。こういう先験的な形式によって、構成された対象である以上、それにかんして普遍的必然的な知識、すなわち真理をもちうることは明らかである。
 しかもそれらが、つくられた対象についての判断である限り、単なる概念の分析ではなく綜合的(synthetisch)な判断なのである。そこで我々の外の自然に、我々から独立して物があるのではなく逆に、我々がそういう経験的対象を、構成するのである。普遍的必然的な心理は我々が、外のものを正しく模写するところに成り立つのではなく、逆に我々が自らの能力による自発的な構成である限り、何時でもその形式的な綜合が、作用していなくてはならない、とするならばその構成は主観的であるといえる。しかし経験や対象は同時に客観的でもあるのだ。こういう我々の自発性によって、自然の先験的(transzendental)綜合判断と概念の分析は我々に多くの認識を与えるものである。
 ア・プリオリな綜合判断はどうして可能であるか、人間理性の自然的素質としての、形而上学はどうして可能であるか、純粋理性が自分自身に問いかけ、形而上学的問題はどうして、普遍的(allgemeine)な人間理性の自然的本性から生じるか、ということである。形而上学の論究する対象を知ることができるのか、できないのか、これらの対象について何事かを、判断する能力の有無が決められるかである。従ってまた、我々の純粋理性を安んじて拡張しえるのか、それとも純粋理性には明確に規定された、制限を付し得るということである。それだから理性批判は、結局が学にならざるを得なかったのである。形而上学的なものそれは、我々人間の感性的経験では知り得ないもので、経験的現象の奥にあると考えられるものなのである。
 カントによれば、我々の先験的な能力は形式によって、対象や経験が構成されるのであって、しかし我々人間は、神ではなく人間であるということである。神ならば神は思考することによって、対象が天地万物を創造することもできるであろうが、しかし我々人間がつくるのは、先験的な形式・型・人間としての先験的な能力による組み立てであり、構成であるに過ぎないのである。このことは我々人間には、素材そのものまで作ることはできないということであって、我々人間は人間に与えられてくれる材料を綜合する働きをするのであり、それだけであってそれ以上のものではないのである。 我々は経験的に与えられてくれる、素材を組み立て纏めあげて、まとまりのある経験的な世界や、自然的対象を作り上げるのである。経験的な世界や自然に関する我々の知識や、我々の判断はなるほど心理であり、先験的(transzendental)綜合判断であることができる。


3 先験的感性論

 カントは純粋理性の批判とは、あらゆる認識の二つの主要因、即ち感性(Sinnlichkeit)と悟性(Verstand)を調べることであるとしている。そして理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力であるから、純粋理性はア・プリオリに認識する原理を含む、理性なのである。ア・プリオリな一切の純粋認識が成立し得るならば、これらの原理の総括は純粋理性のオルガノンといえる。このオルガノン(Organon認識の道具)を周到に適用すれば、純粋理性の体系が成立するとしている。純粋理性の体系のための予備学は、純粋理性の批判と呼べるとしている。カントは「我々が対象に関する認識はなくて、むしろ我々が一般に対象を認識する仕方―それがア・プリオリに可能である限り---に関する一切の認識を先験的と名づける。すると、かかる概念の体系は、先験的哲学と名づけられる。」(13)と『純粋理性批判』上で述べている。
 さらにこの学は、分析的認識とア・プリオリな綜合的認識とを、完全に含んでいなければならないとし、「すると純粋理性批判は先験的哲学を、構成する一切のものを含むことになる。そしてこの批判は、先験的哲学の完全な構想であるが、しかしまだ先験的哲学そのものではない。」(14)と『純粋理性批判』上で述べている。そして、さらに「人間の認識には、二つの根幹があり、それは共通であり唯一の根から生じたものである。二つの根幹とは、感性と悟性である。そして感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられる。」(15)と『純粋理性批判』上で述べている。
 カントによれば、感性は対象が我々に与えられるための条件であり、先験的哲学に属するものであるとして人間の認識活動一般、我々の経験の起源をその批判的研究の課題としている。カントは、理性が直観に対する自己の関係を反省することを、先験的考察と呼んでいるのである。対象とではなくて、我々が対象を認識する仕方がア・プリオリに可能である限り---と関係する、認識を先験的認識と呼んでいる。カントは認識の問題を、とりわけ心理問題は本来観念と存在との関係を問うはずのものなのだが、カントの場合はこれが判断自身、認識内容自身の問題におきかえられてしまっている。だからして、観念と存在との関係の問題が、実際には問われていないのである。
 物自体(Ding an sich)というのが存在のことなのだが、これは認識・観念とは原理的にいってかかわりえないものなのである。カントにあっては、つまるところ外的世界の存在が、意識内容に還元されたがゆえに、外的世界の存在は超越論的意識によって構成されることになるとされている。だからカントが言う議論の実際の内容は、演繹の問題なのである。つまりカントでは、観念・認識内容と存在との関係を問うところの、認識論がもつ本来の問題が、薄められているのである。
 カントは言っている、我々は物をあるがままに認識するのではない。一切の認識は認識する主観と、外界という二つの要因の産物である。一つの要因である外界は、我々の認識に素材と経験の材料を与え、もう一つの要因である認識する主観は、形式とそれによってはじめて、連関のある認識や様々な知覚を、経験の全体へ綜合することが可能となる、悟性概念を与えるのである。もし外界がなかったら現象もまたないであろう、もし悟性がなかったら、無限に多様であるところのこれらの現象、或いは知覚は相互に結合されず、結合されて統一ある表象となることはないのである。
 先験的感性論は、我々の感性または直観能力のア・プリオリな所有物は何かを追求するものである。それは感性と悟性との、あらゆる認識作用の二つの要因であって、カントの言葉によれば、我々に知られていないがおそらく、共通の根から生えた認識の二つの幹なのである。感性は我々の認識能力の受容性であり、悟性はその自発性である。それのみが我々に直観を供給するところの、感性によって我々に対象が与えられ、概念を形成する悟性によって対象が思考されるのである。我々人間にとっての明確な対象、我々の確かな知識そして、正しい認識は感覚的直観と思考、そして感性と悟性との協同の働きによって成立するのである。
 空間と時間的な形式がなくては我々を、感覚的に触発するものは無秩序に過ぎないのである。逆に感覚的な刺激が与えられなくては、空間と時間的形式は空虚なものである。しかし逆に内容として与えられる直観的表象がなければ、感覚的直観の表象はまだ不明確なものである。しかしまた逆に内容として当てられる直観的表象がなければ、カテゴリー的思考は空虚であるといえるのである。カントのいうように形式のない内容は盲目であり、内容のない形式は空虚であるという所以である。
 我々の感性的認識のア・プリオリな原理、感性的直観に本源的に、具わっている形式は空間と時間である。空間はそれによって対象が、我々の外部並びに対象相互の外、および側に存在するものとして、我々に与えられるところの外官の形式であり、時間はそれによって我々自身の、心的生活の状態が対照的となるところの内官の形式である。感覚の質料に属するものを捨象しても、外観のすべての質料がそのうちに排列され、普遍的な形式である空間が残り、内官の質料に心の動きを容れていた時間が残るのである。だから空間および時間は、外官および内官の最高の形式なのである。これらの形式がア・プリオリに人間の心にあることを、これらの概念の性質から直接に証明し、これを形而上学的究明としたのである。
 次にこれらの概念をア・プリオリなものと前提しなければ、疑うことの出来ない妥当性を持っているある種の科学が、全く不可能となることを示すことによって、間接的にも証明しこれを先験的究明としたのである。形而上学的究明においては空間と時間とは、ア・プリオリには与えられていることにもかかわらず、これらの概念は感性に属して悟性には属しないこと、即ちそれらは直観(Anschauung)であって概念(Begriff)ではないことが、示さなくてはならない。空間および時間がア・プリオリであることは、どんな経験でもそれがなされうるためにはすでに、空間と時間とを前提していることから明らかである。だからといって、空間および時間はやはり概念ではなくて、直観の形式でありしかもそれ自身が直観(Anschauung)である。
 先験的究明においてカントは、ある種の科学が空間と時間の先験性の想定からのみ、理解されることを示すことによって、間接的な証明をしている。我々はア・プリオリな綜合的命題は、どうして可能であるかを検討して来た。先験的哲学の一般的課題を、解決するための要件の一つをこの先験的感性論で示した。それはア・プリオリな判断において、与えられた概念の外に出ようとする場合に、この概念に含まれていないが、しかしこれに対応するところの直観においてア・プリオリに発見され、概念に綜合的に結びつけられ得るところのものを、この空間および時間において見出すことなのである。
 カントによれば「感性的認識一般の根本的性質に関する我々の一切の直観は、現象を表象する仕方にほかならない----我々が直感するところの物はそれ自体としては、我々が実際に直観しているところのものと同じものではない、」(16)と『純粋理性批判』上で述べている。我々が知っているのは対象を知覚する仕方だけであり、そして我々が問題にするのはもっぱらこのような仕方だけなのである。空間および時間は、対象を知覚するこの仕方の純粋形式であり、感覚一般はその質料である。さらにカントは「我々がア・プリオリに----換言すれば、一切の現実的知覚よりも前に認識しえるものは、空間および時間だけである、それだから空間および時間は純粋直観と呼ばれるのである。」(17)と『純粋理性批判』上で述べている。
 これに反して感覚(Empfindung)は我々の認識において、ア・ポステリオリな認識即ち経験的直観と呼ばれる。空間および時間は、我々の感覚がどのようなものであるにせよ、我々の感性そのものに絶対に、また必然的に付属するものである。我々がこの直観を知りえてもそれによって、対象事態を知りうるということではないのである。カントは「我々が完全に認識し得るのは、我々の直観の仕方、換言すれば我々の感性だけであり、しかもこの認識はもともと主観に付属するところの空間および時間という条件のもとでのみ可能である。我々に与えられているのは、対象自体ではなくてこの対象の現象だけである。」(18)と『純粋理性批判』上で述べている。我々には対象の現象(Erscheinung)を認識しても対象自体を知ることはできないのである。


【注記】
  1. カント著『純粋理性批判』上 篠田英雄訳、岩波文庫2004年p16「以下『純粋理性批判』上と略す」
  2. カントは「先天的」というのは「経験的」ではなく、経験を超えてという意味であるとしていることから、私見 では「先験的」と同意語と思われることから「先験的」と統一した、但し、引用文はその通りとした。 
  3. 時間と空間、時空形式など表現がさまざまであるが、カントに沿って「空間と時間」という表現に統一した。
 
  (9)  『純粋理性批判』上p65
 (10)  『純粋理性批判』上p65                     (11)  『純粋理性批判』上p67
 (12)  『純粋理性批判』上p73                     (13)  『純粋理性批判』上p79
 (14)  『純粋理性批判』上p81                     (15)  『純粋理性批判』上p82
 (16)  『純粋理性批判』上p108                    (17)  『純粋理性批判』上p109
 (18)  『純粋理性批判』上p109                    


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