父の青春とその時代

                       文化情報専攻 4期生・修了 具島 美佐子

  
 平成十七年の三月の初旬に一人の老人が八十五年と四ヶ月の生涯を閉じた。この老人、私の父は大正八年の秋に東京の下町に生を受け、平成の世にC市内の病院で心臓が停止するまで、平凡ではあったが日本の戦中戦後を生き抜き、その一生を完結させた。

親族からの期待
 父の両親は大正の四、五年頃に東京下町でささやかな家庭をもった。祖父は二十三、四歳、祖母は未だ十代であった。結婚の翌年生まれた女児は死産し、祖母が二十歳の時に第二子である父が生まれた。その後又女児が生まれたが、この女児も夭折し、三女である叔母と後年生まれた叔父二人が成人したのであった。しかし、父はまもなく若い両親の手許から離れ、曽祖母(祖父の母親と兄夫婦)の住む家で養われることとなった。
 父の伯父夫婦には子供がなく、ゆくゆくは父を養子にするつもりで引き取られたようである。祖父よりも十歳以上年長のその伯父は計り職人ではあったが、多少豊かな生活を営んでいた。その妻は夫よりも半歳位年長で勝気であったが面倒見のよい人であった。関東大震災の時には、父はこの義理の伯母に背おわれて本郷まで逃げ延びた。私が「おばあちゃん」と呼んでいた人は祖母ではなく、血縁のない大伯母であったのである。
 昭和に入り、父が同居していた家では、父の祖母が亡くなり、まもなく伯父も病に倒れた。原因は広島への出張による過労であった。管轄官庁の公務員に従い、広島の高等師範学校に計量器の点検に出かけているうちに、体調をくずしたのであったが、死後に送金していた女性がいたことが判明した。この伯父の死後、父は実父の希望もあり義理の伯母と正式に養子縁組をした。しかし苦労人であったこの養母は父が実の両親のもとに出入りすることを警戒し、東京を離れ、自分の実弟が住むC市に住まいを移したのであった。原因は父の養母が義弟であった父の実父にほのかな疑いを抱くようになったからであり、それは養子縁組が戸籍の上だけに終ってしまって、自分は孤独な老後を過ごすかもしれないという不安に襲われたからであったと思われる。父と養母の間は四十歳近い年齢の差があり、養母は父が若い実母を恋しがることを警戒していた。
 C市は東京の隣接県であったC県の県庁所在地であり、父の養母の実家の母親や弟の家族が住んでいたのである。養母の弟は病院のレントゲン技師をしており、学費の援助を受けていた親戚の家の娘さんと最初の結婚で死別し、C市で下宿先の娘さんと再婚していた。その際年齢を十歳偽り、四十歳なのに三十歳といって結婚したことで、妻に終生頭が上らなかったのであった。四十歳を過ぎてから子供に恵まれたこともあり、姉を家に引き取る余裕はなく、この人にとっても父は救いの神であった。

多様な人々との交流
 実父からの援助を養母が拒んだこともあり、父は働きながら旧制の中学校で学び、二十歳頃にはある役所の正式な公務員となっていた。そして初めての出張では「書記さん」とおだてられ、海産物を持ちきれないくらいにもらってきた。その時の養母の嬉しそうな顔を忘れることができないと父はよく語っていた。すでに日中戦争は始まっていたが、未だ生活に余裕がある時期であったようで、上司に歌舞伎座や学士会館に連れて行ってもらったこともあった。さらに映画館を拠点とした二十歳前後の男女のグループ交際に父も加わり、その中の一人の女性と父は将来を誓い合うようになった。父はこの女性を養母や東京に住んでいた実の両親、弟妹にも紹介していた。
 父の勤務先の役所の上司には帝国大学の出身者と私立大学・専門学校等の出身者が半々位いた。これらの人々の影響から、父は天皇が神でないことを早い時期に知らされていた。また他の官庁と異なり、上司の構成は幅広く、左翼思想からの転向者である帝国大学の出身者もいれば、専検に合格後に専門学校の夜間部で学んだ人もいた。この役所では転向者を逆用しつつ、一方では苦学生を評価していたのである。昭和初期から太平洋戦争の勃発時頃まで、若者にはある意味での再チャレンジの機会がわずかに与えられていた。それがいい悪いは別として、ある意味では戦前の社会にも若者に夢が与えられていたのである。
 また二十歳前後の父に最も影響を与えたと考えられる明治末期から大正初期の生まれの人々は、マルキストにしても国家社会主義者にしても、資本主義社会の矛盾から発生した弱者を救済しようとする社会改革の意識をもっていたようで、父は冷めた視点からの忠君愛国主義と共に贅沢を嫌い労働を尊ぶ精神を学んだようである。私が三十五年ちかく社会人として働いてきたのは、ひとえに父の労働を重視する価値観によるものであった。

書記官から皇軍兵士へ
 やがて太平洋戦争が始まり、父も皇軍兵士への路を歩まざるを得なくなった。そして入営後まもなく戦争に負けるかもしれないということを周囲から知らされることとなった。本籍地が東京であったので、父は入営後市谷の近辺で訓練を受けたが、同じ隊には現役の将官の長男がおられた。この人物の存在で新兵としての訓練は余り厳しくなかったそうである。この将官の子息は一般大学の文学部出身で既に二十七、八歳、父親である某将軍は子息の訓練風景を見学に来られたこともあったという。その際には妹婿の青年将校も従っていて、「あれが親父さんと妹の婿だ、すげえな!」と、庶民階級出身の兵たちは羨望したが、まもなく青年将校が軍医であることが分かった。そして年長の兵の口から「この戦争は必ず負ける。だからあの将軍は娘を軍医に嫁がせたのだ。」という話を聞かされたという。
 内地での訓練後、父は南方行きの輸送船三池丸(日本郵船所属)に乗船した。その船が台湾海峡を通った時には、生きて日本には帰れないことを痛感して涙が出たという。それは将来を誓った恋人が入営の際の見送りに現れなかったことも原因していたらしい。父よりも二歳歳下のその女性は当時二十歳位で女学校卒業後、小学校の代用教員をしていたが戦時中に別の男性と結婚をした。婚期が遅れてはというご両親の配慮からであろうが、東京の人はどこへやられるか分からない、C県の人は満洲だから帰ってこられる、というような情報が当時のC市内でささやかれていたことも一因であろう。父はうまい具合に見捨てられてしまったのである。この話を私は父の納骨式の日に父の弟から聞かされて、初めて父が輸送船の中で泣いた意味を理解することができた。
 父の所属していた部隊はマレー半島を行軍してから船でスマトラ島(蘭印)に渡り、終戦までその島で過ごした。おそらくその部隊は第二十五軍に組み入れられたのであろう。同じ頃のスマトラ島の別の部隊には、戦後、父の妹婿になる人もいた。本籍が東京出身者で召集された者の一部が第二十五軍に配属されたのであった。もしも父がC市に本籍を移していれば、中国大陸やフィリッピンに征かされていたかもしれず、戦死した可能性が高かった。スマトラ島には豊かな油田あり、またオランダの支配に反発を感じていた現地の人々は、当初日本軍を歓迎したことも事実であった。それでも連合国側の爆撃はあったそうで、空中戦を遠くから見たこともしばしばあったという。「日本の飛行機なんかダメだ、上っていってもすぐ打ち落とされてしまうんだ」と、虚しさを込めて語っていた。父が死ぬまで飛行機による国内旅行をしなかったのは、同胞が搭乗機と共に火の玉となって海に落下していく光景が目に焼きついていたからであろう。戦争末期の特別攻撃隊の隊員は父よりも五歳位若い予科練出身者や学徒出陣者で、これらの人々の多くは女性の心変わりを体験することもなく、散華していったのである。
 終戦と同時に英軍の捕虜生活に入ったことが何よりも嬉しかったと父はよく言っていた。当時英軍の東南アジア方面の最高指揮官はマウントバッテン将軍(卿)であった。ルイス・マウントバッテンはビクトリア女王の曽孫で、革命で倒れたロシア皇后アレクサンドラの甥であり、戦後はエジンバラ公の叔父として英国王室に発言権をもった人物であった。「ビルマにはマウントバッテンがいる」と日本の兵士から戦時中は恐れられていた。戦犯以外の一般の兵士が、強制労働や虐待も受けずにスマトラ島から内地帰還をすることができたのは、英軍の対応がよかったからであろう。  さらに終戦時に父の部隊では徹底抗戦を叫ぶような上官がいなかったことも幸いした。英軍から与えられたコンビーフを手にしたとき、父はこれで生きることができることを痛感したという。父は老いてからもコンビーフがご馳走であった。同じインドネシアでもジャワ島では吉住留五郎の影響などから独立運動が盛んとなり、三千名以上の日本兵が侵略者の汚名をそそぐためにインドネシア独立のために立ち上がって、その三分の一は還らぬ人となった。父と同年輩の人々はその半分位が歴史の中の塵となってしまったのである。

復員から結婚へ
 復員後、もとの職場に復帰した父は、養母が老齢のこともあり結婚を急がざるを得なかった。しかし入営の際の女性の裏切りを体験したこともあり、終戦から六年後の昭和二十六年に私の母と見合結婚をして、翌年私が生まれたのであった。父が戦後の代表的なメロドラマの「君の名」をあまり好きではなかったのは、若い日に女性の表裏を味わったからでもあろう。一時期、父は四十歳まで独身を通そうと考えていたこともあったらしい。それは子供の学校行事などで、狭いC市で自分を裏切った女性と再会することを恐れていたからであろうと私は推測している。軍隊時代の上官の娘さんや、職場の先輩の姪御さんなど、父のような財産もなければ正規の学歴もない青年にも戦後の男女比のアンバランスから結婚の話は絶えずあったらしい。母は父を裏切った女性とは別の女学校の出身でもあり、戦後六年を経過したこともあり、父は三十二歳で独身生活に終止符を打ったのである。やがて一般の事務職から内部選抜の特別職の公務員となり、七十歳になると直ちに生存者叙勲を受けることもできた。
 光陰矢の如しというが、歳月は過去の恩讐を確実に消し去っていった。父は七十五歳の時に、自分より九歳下の母に先立たれ、その後はいくつかの病院に通うことを趣味としていた。七十七歳を過ぎた頃に父はC市内のバスのなかで、戦時中に裏切られた女性と偶然再会をしたらしい。ある晩の夕食の際に「昔ちょっと知っている二つ下の女の人と会ったよ、五十五年ぶり、いや歳月だなあ」と感慨をこめて語ったことがあり、単なる女友だちとの再会かとその時の私は聞き流していた。戦争で引き裂かれた二人が生きているうちに再会し、互いに老いのみをねぎらう言葉をかけあったことは互いの人生の救いとなったにちがいない。その女性もある意味では戦争の被害者であり、父がその女性と結ばれていれば、私はこの世に生を享けることもなかった。 父は戦争により、女性から手痛い裏切りを受けたが、そのことがその後の人生のバネとなり、戦後の社会を生き抜いたのであった。




【参考文献】



総合社会情報研究科ホームページへ 電子マガジンTOPへ