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本書は「トンネルを抜ければ「異界」−上越線」にはじまり「初老「鉄ちゃん」はかわいいか 「あとがき」にかえて−大糸線」にいたる15の旅行記からなる。しかしたんなる鉄道旅行記ではなく、文学作品や作家の夢の跡をたどる紀行文である。著者関川夏央はいわゆる「団塊の世代」の人。中年期以降の、みずからの世代を意識した随筆に印象的な作が多いが、本書もまたそのひとつといえる。
ローカル線のRの小さなカーブに車輪が鳴く音を聞きながら、こんなことを考えた。智に働いた末に無用の人。時代に棹さして流された。通す意地などもとよりない。なのに本人はそう思ってない。無用とも流されたとも思わず、通すべき意地を通しているのだと信じている。 〈p279〉
本書の棹尾をかざる戯文である。著者はこれが「団塊の世代」に対する感想だという。だが、この漱石のパロディからは、どうしようもない貧寒さが漂ってこないだろうか。著者自身は「そこ(筆者注、「団塊の世代」)に自分も含まれるのはいかにも残念ではあるが、是非もない」とつけ加える。著者はローカル線の車内に同世代の「鉄ちゃん」の姿を見かけるにつけ「いい年をして、もっとぜいたくをできないのか、といいたくなるが、恥ずかしながら私もそのひとりなのである。」「こんな安上がりな旅を趣味としているようでは消費者として半人前なのではなかろうか」と団塊世代を批判しつつみずからを反省する。その一方で「「鉄ちゃん」と呼ばれても赤面しなくなった」と中高年らしく居直る一面も持つ。著者はこういった世代意識をバネとして作品を読み解き鉄道に乗る。
団塊世代の著者の最大の関心事のひとつは、おそらく「老い」である。第14章「汽車は永遠に岡山に着かない 東海道、山陽、鹿児島各本線、御殿場線」を読むとそのことがよくわかる。ここで取り上げられているのは戦後の内田百閧ナある。百閧フ紀行随筆「阿房列車」シリーズは1950年代に「小説新潮」に不定期に連載された。著者は「阿房列車」に垣間見られる「老人」「文士」百閧執拗に追う。そして百閧「威張るのは老人の義務、横着は文士のあるべき姿だと心得ていた」人だと評する。百閧ヘ借金をして「阿房列車」の旅に出る。乗るのはもちろん一等車。キップは「従者」のヒマラヤ山系こと平山三郎氏に買いにやらせる。しかも「先に切符を買えば、その切符の日附が旅程を決めて、私を束縛するから」と前売りのキップを買わない。著者はこんな百閧「頑固な老人」「純文学原理主義者」と呼ぶ。しかしその一方、このときの百閧フ年齢がまだ61歳にすぎなかったことに衝撃を受ける。この衝撃はどこに起因するのか。自身60歳に近づきつつある著者と百閧ニの、彼我の落差の大きさである。
そのまえで著者はうなだれる。隔世の感がある。わずか50余年まえのことなのに。しかし、あまりにかけ離れているがゆえに、かえって「時間旅行」を楽しんでしまう。一種のノスタルジーである。この感覚こそ鉄道趣味家に通有のものではなかろうか。
著者は以下のように書く。
百閧ヘ、必ずしも老いの規範とはなり得ない。だいいち、いまの文士はこんなに威張れない。威張れば失業するばかりだ。『阿房列車』には六十一歳からもう老人になれたよい時代を見るのが賢明であろう。それは百閧ェ、自ら帰れなくした岡山を通過する山陽本線の車窓に少年期を垣間見て、彼方へ去った明治を追憶するのとおなじ気分である。(p276)
最後に、細かいことではあるが、著者の誤解と思われる箇所を指摘しておきたい。内田百閧ェ東京駅「一日駅長」をつとめたときのようすについての記述である。本書p260には以下のように記されている。
百閧ヘこの訓辞ののち、ホーム上で二年前の「特別阿房列車」とおなじ12時30分発の特急「はと」に、一日駅長として発車合図をした。見送ってめでたく業務終了となるはずが、動き出した「はと」の最後尾、展望車にひょいと乗ってしまった。
これは事実と食い違っている。百闔ゥ身の手になる「時は変改す」(『立腹帖』〈内田百闖W成 2〉筑摩書房 2002年所収)や当日現場にいた中村武志「百關謳カと汽車」(『目白三平 駅弁物語』旺文社 1987年所収)によると、百閧ヘ発車合図の仕事を放り出して、ベルが鳴る「はと」に乗ったというのが事実らしい。当日のようすについて中村武志はつぎのように記す。
さて、正午過ぎホームに立った先生は、「はと」の発車直前、なさるべき発車合図の重要任務を放棄され、最後尾の展望車に乗ってしまった。ホームに残って、消え行く列車を見送っておられるほど中途半端な汽車好きではなかった。また合図をしてから飛び乗れるほど六十三歳の先生は敏捷でもなかった。できたとしても、それはまた先生の威厳を損ねることでもあった。(中村前掲書p218)
関川の描く百閧謔闥村のそれのほうが「威張った」「老人」らしいと思うが、いかがであろうか。
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