風の詩人 石原吉郎 第3回

博士後期課程・総合社会情報専攻 3期生 柴崎 聰

石原吉郎の略歴

  石原吉郎は、1915年、静岡県伊豆土肥村(といむら)、現在の土肥町に生まれた。この町は伊豆半島の西海岸にあり、駿河湾を望む風光明媚な漁港と温泉の町である。北の方に目を転じれば雄大な富士山が遠望できる。
 1934年、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)ドイツ語部に入学し、マルクシズムやエスペラント語に非常な関心を持った。同時に北条民雄の小説『いのちの初夜』に強い衝撃を受けている。この小説は、北条がハンセン病を発病し、東京の東村山市にある全生園(ぜんしょうえん)に入園した実体験を基にした作品である。「いのち」とは何か、一生涯のテーマが過酷な現実を通して描かれている。その後も石原は、この小説と北条民雄に拘泥とも言うべき関心を寄せ続けることになる。
 外国語学校を卒業してから、大阪ガス会社に就職し、この頃、ロシアの哲学者シェストフの影響で、ドストエフスキーを耽読した。その当時は、後年に強制収容所でドストエフスキーと同じ体験を強いられることになるとは、思いも及ばなかったことであろう。また、20世紀最高峰の神学者と言われるカール・バルトの神学書を熱心に読み、キリスト教に関心を持った。やがて、その弟子であるエゴン・ヘッセルが日本に滞在していたことから、彼から洗礼を受けることになる。
 1939年、神学校に進む決心をして、東京に赴き、信濃町教会に出席した。同年、召集を受け、応召。1945年、ハルビンで敗戦を迎え、ソ連軍に留置され、1949年、重労働25年の刑を宣告され、強制収容所に収容された。1953年、スターリン死去にともなう恩赦によって、日本への帰還を果たした。実に応召から14年後のことである。
 帰国後、本格的な詩作を開始し、1964年、詩集『サンチョ・パンサの帰郷』でH氏賞を受賞した。エッセイ集『望郷と海』は、過酷なシベリヤ体験を記録した優れた内容で、歴程賞を受賞している。1975―77年、日本現代詩人会会長を務め、1977年、自宅の風呂場で事故死した。帰国後も、石原のめぐりにはシベリヤの風が吹き続けていた。私は、それを敢えて祖国日本における「客死」と呼びたい。


 半時のあいだの静けさ

  詩集・評論集『日常への強制』(構造社、1970年)のエピグラフ(題詞)には、聖句「第七の封印を解き給ひたれば、凡そ半時のあひだ天静(しづか)なりき」(ヨハネの黙示録8章1節)が記されている。これは、『石原吉郎全詩集』(花神社、1976年)のエピグラフともなっていることから、石原にとって指標とも言うべき、最も重要な聖句の一つであろう。『聖書 新共同訳』(日本聖書協会、1987年)では、「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた」と訳されている。
 石原は、エッセイ「半刻(はんとき)のあいだの静けさ――わたしの聖句」で次のように述べている(評論集『海を流れる河』、花神社、1974年)。

 私は聖書を読むとき、無意識のうちに詩的な発想をさがし求めていることが多い。だから、求道的な読者なら素通りしそうな箇所で長すぎるほど立ちどまったりする。聖句として感動するまえに、詩として感動してしまうのである。わけても黙示録のこの一句は、信仰という枠をこえて、望洋たる感動を私にしいる。
 私は口語訳の聖書をほとんど読まない。聖書の最初の印象を私に決定したのは、文語訳の格調の高さであり、いまもなおその印象がうしなわれることをおそれるためでもあるが、何よりも大きな理由は、文語訳にはあきらかに詩があるということである。これにくらべると口語訳の聖書には、かわいそうなほど詩がない。
 さて冒頭にあげた文章であるが、これはいわば叙景的な証言ともいうべきものであるから、信仰へのはげましにあふれた、いわゆる聖句にはおよそほどとおいかもしれない。ただ、私はこの文章のまえに立ちどまらざるをえないのは、『凡そ半刻のあひだ』という猶予の時間の、息づまるような静寂のうつくしさに感動するからである。

  この聖句の主語は、小羊である。すなわち、キリストである。小羊は巻物の封印を次々に開いてゆく。白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂が現われ、大地震が起こり、天の星がいちじくの青い実のように落ちてくる。最後に第七の封印が開かれたとき、半時ばかりの静けさがあったのである(黙示録6章)。それは、さらに恐るべき災害あるいは審判を予感させるものであった。
 石原は、この聖句を全詩集の劈頭(へきとう)に冠することによって、彼の詩を沈黙の中にひそみかえらせ、最後の審判に丸ごとさらそうとしているかのように思える。


 聖書の思想

  石原が聖書の影響下にあるのは、詩に限らない。俳句「無花果や使徒が旅立つひとりづつ」では、イエスに選ばれた使徒たちの旅立ちが描かれ、短歌「『我渇く』無花果の成るもと飢ゑたりし〈彼〉」では、十字架上のイエスの言葉とイエス一行の旅先でのエピソードが聖書に流れる時間を逆転させ、交差させるかのように扱われている。
 石原には、「飢え」に言及した作品が少なくないのは、ソ連の強制収容所の体験が色濃く影を落としているからに相違ない。厳密に言えば、シベリヤで死ぬほど体験してきた「飢え」を、聖書の中に数多く見出して、その深みを改めて認識したのではないか。
 石原の作品には、聖書の思想に強く影響を受けた作品が極めて多い。例えば、短歌「『この病ひ死には到らず』発念の道なす途の道の行く果て」の二重括弧の部分は、デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールの有名な思想書『死に至る病』を発想させたヨハネによる福音書11章4節の「この病死に至らず、神の栄光のため、神の子これに由(よ)りて栄光を受けんためなり」そのものである。
 詩は言うに及ばず、俳句や短歌にも聖書の影響は及んでいる。そこにおいて石原の聖書への求道的な姿勢が明らかになる。

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