キャリアは、生を意味づける枠組みを提供してくれるという点で意義は大きい。これが、今日のキャリア論ブームの底流にあるのは間違いないであろう。学校で落伍して下流の底層に沈んでいる者や、重度の障害者など、外的評価枠から見れば非主流でハンデキャップを背負ってしまった人々にとって、‘それでも生涯にわたって仕事と関わって生き抜いていく’というキャリアの過酷さは、日々働くことで気づく暗黙の意味、価値、信念、その他の認知から生まれる。私は、E.U.ジェンドリンに倣い、日々刻々職場で働くことを「仕事の体験過程」と呼ぶが、キャリア論の流行が、もしキャリアにおけるサクセス・ストーリーを考察、デザインすることにあるとすれば、この流行において、生を意味づける枠組みを提供してくれるキャリアの意義はそれほど高くは無い。寧ろ、サクセス・ストーリーを展望しえず、デザインすることの圧倒的な困難さに直面している人々にとってこそ、キャリアの意義は高いといえる。
といって、私は、キャリア論がキャリア・デザイン論から仕事の体験過程論まで、あるいは外的キャリア論から内的キャリア論までの振幅を持ちうる事実は、時代の現象として少しも否定しない。特に、キャリア・デザイン論が内包する向日性、即ち嘗ての言い方をかりれば、仕事人生において「夢と志」を目指してという前向きさは、時代を超えた普遍性があると認めなければならない。
さて、戦後の復興期に育ち、現役時代のほぼ全体を高度成長期―バブル期―長期低迷期に過ごした私は、かって「会社人間」(田尾雅夫)であったことを強く自覚している。そして、キャリアにサクセス・ストーリーを展望しえず、デザインすることの圧倒的な困難さに直面してきた者たちの典型的事例として、私は「会社人間」を挙げたい。何故そうなのか?その根底を考える鍵が、キャリアにおける仕事の体験過程にある。
この世代(現在多くは60歳代前半)にとって、数十年間、日々刻々に仕事に関わって生きてきた体験過程から、‘それでも生き抜いていく’ための固有の様式として「会社人間」が生まれたのである。私は「会社人間」の心理的基盤は、彼らの仕事の体験過程そのもののうちにある、と考える。因子分析を使った私の研究によれば、私が属するコホートは仕事の体験過程から、主に「内部矛盾的な意味適用様式」という固有な体験過程様式、即ち固有な働き方を生み出したのである。
固有な体験過程様式とは、仕事の体験過程に3つの異なる意味生成方法が内包され、いずれかの方法が現実に顕れる可能性がある、ということである。一つは、自立的に自己の実感から意味を創始・開発する意味生成方法、二つは、専ら自らの既存の意味体系から意味が生成される自己操縦的・自己旋回的な意味生成方法、三つは、組織から意味が付与される依存的な意味生成方法、である。コホートが抱えた内部矛盾と言ってよい。そして、この世代は仕事の体験過程において、人間関係を含む仕事の状況に応じて意味生成方法の選択を行うという固有なやり方で内部矛盾に対応しつつ、自立と依存の間で揺れ動いて‘生き抜いてきた’のである、と言えよう。否、この世代は、主にそのようにして仕事に関わって‘生きて抜いていかざるをえなかった’のである、と考えることができる。私は、こうした考え方を「仕事における実存」の視点と呼びたいと思う。 (完)
[参考文献]
笹沼正典「中高年ホワイトカラーの内的キャリアの規定要因に関する実証的研究」2002.1(修士論文)
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