連載・どうでもいいことばかり (5)
   ベトナム戦争とは 

                           国際情報専攻 5期生・修了 寺井 融

   

 いま日本企業の間では、中国からベトナムに人気が移りつつあるときく。ベトナムウォッチャーの一人としては、嬉しくもあるのだが、危うさも感じる。大阪に住む先輩が、ベトナムを舞台にした本を出した。紹介文を書いたので、以下に転載する。

※稲葉継正著『神々の幻影―ボートピープルの慟哭―』(新風舎刊)

  小説である。早いテンポと会話の多い文体で読みやすい。ところが、ポップコーンを口に運ぶように次々と頁をめくっていった指が、途中から時々止まるようになる。
 一九六〇年代末、主人公の雅夫は京都府大に入る。女性活動家への恋心もあって、ベ平連に参加。卒業後、二年で勤めを辞め、七四年の春、叔父を頼ってベトナムのサイゴンへ。「これが戦争をしている国かと思うくらい、街は平和で人々の表情が明るいので、正直驚きましたね」。雅夫の感想である。
叔父の日本料理店を手伝い、友人もできるが、十二月になると、街の雰囲気が少し重苦しくなってくる。「日本人だから、コンサンが来ても日本に帰れるし、いいですね」と同僚で華僑の娘、ユキからも言われる。「コンサン」とは共産主義者を指す。
 翌七五年三月になると情勢が悪化。ユキの両親に頼まれ、彼女と偽装結婚する。雅夫は四月二十四日、最後の航空便が取れ、ユキに「パスポートが取れて、出国できるようなったら、日本に来るように」と言い残して脱出した。三十日にサイゴン陥落。  
 ――ここから先は、読んでいただくとして、その後、「解放」されたはずの南ベトナムから膨大な人々が、ボートピープルになって出てきた。著者は、欧米各国をはじめ世界中の国々が救出に向かったのに対し、日本の取り組みが弱かったと嘆く。
 その通りではあるが、武藤光朗、関嘉彦といった民社研の学者を中心とするグループが、七七年九月に「自由人権委員会」を設立し、インドシナ難民支援を提唱。後の「インドシナ難民連帯委員会」の活動につながっていったことを付記しておく。
 評者は、その年の十一月に、二週間のベトナム団体旅行に参加した。ハノイはほぼ無傷であり、北爆は限定爆撃であったと実感させられた。旧サイゴンの床屋では、当方が結婚指輪をつけていないため、女店員に「ノー・マリッジ?」と訊かれた。
 ――著者は南越激動の日々を体験した一人であり、現在は東南アジア専門旅行社の経営者である。本書には、その貴重な体験と、きめの細かい調査がふんだんに盛り込まれている。さて、雅夫とユキは再会できたのか…(『諸君!』二〇〇六年十月号)。

 実は私、ユキちゃんのモデル・Tさんを知っている。彼女は華僑の娘で、稲葉先輩が勤めていたサイゴンの旅行社の同僚であった。陥落寸前に偽装結婚したが、彼女だけ取り残された。小説ではボートピープルとなって脱出するのだが、事実は違う。
 シンガポールの旅行社で働くようになった先輩が、休暇を見つけてはラオスのビェンチャンに行き、ベトナム大使館に足を運んで「私の妻を出国させてほしい」と訴え続けた。おかげで合法的に出国できたのである。
 シンガポールの先輩から手紙がきた。「戸籍上、妻となっている女性が、実家の寝屋川にきており、東京の友達のところに行きたいといっている。面倒をみてもらいたい」という内容であった。
 迎えに行った。Tさんは小柄な美人。中国語、ベトナム語、英語、日本語が堪能であった。先輩のお母さんは「あの娘はいい子なんですけどねぇ、嫁ではないですし…。あなた様はもうご結婚なさっておられて、お子様もいらっしゃるのね。うちのは戸籍を汚しただけで、本当の結婚はいつになるんでしょうかねぇ」と嘆かれる。もっともだと思った。
 T女を、東京清瀬の団地に連れ帰った。愚妻が風呂の入りかたなどを教え、友達と連絡がとれるまで自宅であずかった。「彼女、池袋のデパートに連れて行ったけれど、驚かないのよ」と妻がいう。「サイゴンは首都だよ。南の島からじゃないんだから」と答えた。
 Tさんは旅行社勤めのあと、学校の先生をやっていたという。
「朝、政治学習会に動員されるのが嫌でしたね。子供たちに、VOAを聞いている人がいたら、教えなさいというのも……」
 町田の友人宅に移って行き、アルバイトを始めた。保証人となった。しかし、喫茶店のウェートレスや手内職などは、長続きしない。そこで英語を習いたい青年を集めて、「英語教室」を始めた。これは、続いた。受講生にも好評であった。後に、彼女は米国に渡り、日系米国人と結婚した。戸籍が空いた先輩も“再婚”した。
 ベトナムが「全土共産化」されて、難民が多数発生した。その原因について、日本共産党は当初、「旧体制の人たちが新体制になじめなかったから」と言っていたが、後に仏米と続いた植民地支配や中国の影響を口にする。いずれにせよ「出てくる本人やほかの国が悪い」という論理で、「ベトナム政府に非がない」というのである。
 ベトナム戦争は、南の民衆が南越に居座る米軍を追い出す「植民地解放・祖国統一戦争」といった報道が幅をきかせていた。「民族民主解放戦線(ベトコン)の正義の闘い」という位置づけであった。
 そのベトナム戦争の「常識」がサイゴン陥落後、もろくも崩れ去る。北ベトナム人民軍総参謀長が「北で周到に計画が練られた北正規軍による闘い」であったことを明らかにする(バン・ティエン・ズン著『サイゴン解放作戦秘録』新日本出版社)。
 つまり「解放」という名の「共産化」であったのである。南ベトナムの政治勢力には、グエン・バン・チューなど政権側、ベトコン、そしてそのどちらにも属さない第三勢力があると言われてきた。
 旧政権側はもちろん、第三勢力も弾圧され、あまつさえベトコンを主体とした南ベトナム臨時革命政府の主力メンバーのほとんどが、政治の表舞台から姿を消した。難民となった南ベトナム元司法大臣の証言もある(原書房刊)。(<註>チュン・ニュー・タンとチュオン・ニュー・タンは同一人物だが訳者によって表記が違う)
 とかく日本人は、「ベトナム戦争」というと、「べトナムとアメリカの戦いで、小国が大国を破った」と思い勝ちだが、果たしてそうか。
 ベトナム人にとって戦争とは、「フランス植民地主義者」「日本軍国主義者」「アメリカ帝国主義者とその傀儡」などとの戦い、さらに「中国膨張主義・覇権主義者」及びそれに操られたカンボジアの「ポル・ポト派ジェノサイト一味」との戦いのすべてを意味している――と中野亜里編『ベトナム戦争の「戦後」』(めこん刊)で指摘している。「ポル・ポト派が中国に操られていた」と断定するのは、四人組など左派との関係が深かったとしても、疑問であるが、ベトナム人の「戦争史認識」がよく判る。
 アメリとの戦いは、長いベトナムの戦いの歴史の一部である(「狭義のベトナム戦争」)。それも、一九七三年一月のパリ和平協定で米軍の撤退が決まり、七五年のテト以降の最終局面は、北と南とのベトナム正規軍の戦いであった。そもそも、その「狭義の戦争」での犠牲者の七六%は、ベトナム人同士の戦いによるという調査もある(前述、中野編著参照)。
 七五年四月三十日(サイゴン陥落)以降の南北統一後のベトナムについては、古田元夫著『ベトナムの現在』(講談社現代新書)や松尾康憲著『現代ベトナム入門』(日中出版)などを一読して大枠をつかんだ上、前述の中野編著のほか元「ニャンザン」副編集長・タイン・ティンの『ベトナム革命の内幕』(めこん刊)を読んだらよい。
 殿岡昭郎著『アメリカに見捨てられた国』(創世紀刊)、古森義久著『ベトナムの記憶』(PHP研究所刊)、そして角英夫著『家族の肖像・サイゴンの歌姫』(NHK出版刊)もお奨めする。
 「サイゴンの歌姫」とは、難民となった国民的歌手カン・リーの物語である。最近天童よしみがリバイバルヒットさせた「美しい昔」を歌った歌手として有名である。

 

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