カントの認識論(上)

                       人間科学専攻 8期生 川太 啓司

  

はじめに

 カント哲学は一般的に批判哲学と呼ばれている。それは理性批判をとおして人間の認識活動の根本が、我々の認識能力の吟味にあるとしているからである。カント哲学は、人間の考える力を万能のようにみなしたヨーロッパの合理論と、イギリスの経験論とを綜合したものとされている。我々の感性をとおして悟性・理性がまとめあげるところに、自然の世界や真理がなりたつとしたのである。一般的に理性とは、ギリシャ哲学以降、知性、知識、真理、善、幸福、正義等々と同じように、多くの場合肯定的表現として用いられてきたのである。ではなぜカントは、その理性を批判し吟味するとするのか。そして理性批判の意味するところは何なのだろうか。というようなことを問題意識の基底にとらえて、論を進めてゆきたい。    
 カントの生まれ育ったケーニヒスベルクは、当時1750年頃としては海外貿易の要地であり、西欧近代社会へ通ずる門戸であったが、前近代的な慣習がまだ、がっちりと根をおろしていた社会でもあった。カントは、真理や善のよりどころであるはずの理性が、宗教や政治という社会的権威の下に、昏迷と矛盾とに陥り曖昧模糊とした、不確実性を含むものであれば、理性そのものが根本から、吟味されなくてはならないとしたのである。
 カントは「しかし私がここに言うところの批判は、書物や体系の批判ではなくて、理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に関して、理性能力一般を批判することである」(1)と『純粋理性批判』第1版序文で述べている。
 このようにカントは、まず認識能力としての理性のはたらき、そのものを批判しなければならないとしたのである。カントは理性を批判するに、先験的な要素と後天的な要素とに分け、広義の理性を受容性としての感性、直観の能力と自発性としての悟性、思惟の能力とに分けたのである。さらに感性については、後天的な感覚と(2)先験的直観形式としての空間と時間(3)とを分けたのである。そしてさらにまた悟性には、先験的な思惟形式として12のカテゴリー認めたのである。カントは経験認識というものは、この感性と悟性との協同の働きで成り立つものであり、感性が受けとった直観を、悟性が能動的に思惟する結果であるとしたのである。


1 経験的認識と純粋認識

 カントが『純粋理性批判』において繰り返し言っていることだが、我々は、物をあるがままに認識するのではない。我々は、物自体(Ding an sich)を認識するのではなくて、現象を認識するに過ぎないとしている。カントは「我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない。我々の認識能力が、対象によって呼びさまされて、初めてその活動を始めるのでないとしたら、認識能力はいったい何によって働き出すのであろうか。対象は我々の感覚を触発して、あるいは自ら表象を作り出し、あるいはまた我々の悟性を働かせて、これらの表象を比較し結合しまた分離して、感覚的印象という生の材料に、いわば手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験的認識と言われるのである。」(4)と『純粋理性批判』で述べている。
 経験がすべての認識の始まりであり、認識能力が対象によって始めて認識活動を始めるのである。感覚的印象である対象の生材料に、手を加えて対象を認識するのである。この認識することが経験と言われ、この認識がすべて経験を得て始まるのである。しかし認識がすべて経験から、生じるものではないのである。経験的認識ですら感覚的印象と認識能力、そして悟性と悟性概念が加わった合成物なのである。だから経験に関係しない認識それがア・プリオリな認識であり、経験的認識から区別されるのである。我々は対象に関する認識ではなくて、むしろ我々が一般に対象を認識する仕方---それがア・プリオリに可能である限り----に関する一切の認識を先験的というのである。このような概念の体系は先験的哲学と呼ばれるのである。
 カントは、認識がどんな仕方で、またどんな手段によって、対象に関係するにせよ認識が直接に対象と関係するための方法、また一切の思惟が手段として求める方法は、直感であるとしたのである。しかし直観は対象が、我々に与えられる限りにおいてのみ生じるものである。対象が、我々に与えられるということは、少なくとも我々人間にとっては「対象がある仕方で心意識を触発することによってのみ可能である。我々が対象から触発される仕方によって表象を受けとる能力を感性という。それだから対象は、感性を介して我々に与えられる、また感性のみが我々に直観を給するのである。」(5)と『純粋理性批判』で述べている。であるからして、対象は悟性によって考えられ、そして悟性から概念が生れ、そして思惟は直観に関係するのである。
 したがって思惟は、我々人間にあってまず感性に関係し、対象はこれ以外の仕方で我々に、与えられることができないからである。対象が、表象能力に与えられる作用によって生じた結果は、感覚である。カントは「感覚を介して対象に関係するような直観を経験的直観という。」(6)と『純粋理性批判』で述べている。また経験的直観の規定のうけない対象を、現象というのである。感覚に属するものを一切含んでいない表象は、純粋な表象と呼ばれる。感性的直観一般の純粋形式は、我々のうちにア・プリオリに見出され、そして現象における一切の多様なものは、この形式によってある関係において直感されるのである。感性のかかる純粋形式は、それ自身純粋直観に属するのである。
 ア・プリオリな認識のうちで、経験的なものを一切含まない認識を純粋認識という。我々がア・プリオリな認識というのは、個々の経験にかかわりのない認識ではなくて、一切の経験に絶対に、かかわりなく成立する認識を、意味するのである。カントによれば「ア・プリオリな認識に対立するのが、経験的認識である。経験的認識は、ア・ポステリオリにのみ、換言すれば、経験によってのみ可能な認識である。そしてア・プリオリな認識のうちで、経験的なものを一切含まない認識を純粋認識というのである。」(7)と『純粋理性批判』で述べている。
 そして、それだから経験にかかわりのない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような、認識が実際に存在するのかという問題が、発生するとしているのである。そして、さらにカントは「かかる認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれて、経験的認識から区別される。経験的認識の源泉はア・ポステリオリであるというのは、その源泉が経験のうちにあるということである。」(8)と『純粋理性批判』述べている。
 カントに即して論をすすめると、純粋認識と経験的認識と確実に区別し得るものはなにか。経験的事実として教えるがそれは、必然性を教えるものではなく、第一にある命題が同時に必然性を含むものであるならば、それはア・プリオリな判断である。第二に経験は普遍性を与えず、ある判断が普遍性を持つものなのである。そしてこのような判断は経験から得られなくて、絶対にア・プリオリに妥当する判断なのである。経験的な普遍性なるものは、妥当する普遍性を勝手に高められたものであり、厳密な普遍性が本質的に属するのは、ア・プリオリに認識する能力によるものである。だからして、必然性と厳密な普遍性とは、ア・プリオリな認識をする特徴なのである。
 我々は、必然的なまた厳密な意味で、普遍的な従ってまたア・プリオリな純粋判断が、人間の認識にあることを証示できるのである。カントは、一切の認識は認識する主観と、外界という二つの要因の産物であるとしている。そして外界は、我々の認識に素材と経験の材料を与え、もう一つの要因である認識知覚を、経験の全体へ綜合することが、可能となる悟性概念を与えるとしている。外界がなければ現象もない、悟性がなければ現象あるいは知覚は、相互に結合されず統一ある表象とはならないのである。認識は概念の枠に経験の素材をみたし、経験の素材を悟性概念でとらえることによって、両者を合わせたものが綜合的判断なのである。
 そして経験世界と、現象の世界を認識する理論理性の、中心的なものとして純粋統覚の意識が存在するのである。人間が認識する対象は、感性に与えられる直観の多様の表象を、素材とする現象の世界でしかなく、現象の奥にひそんで感性を触発しているであろう物自体(Ding an sich)即ち、超越論的対象がなんであるかは、我々には一切それを知ることができないのである。我々は外界にあるものを現象として認識するが、我々自身をも内感を通して、現象として供えているのであって、その際に現象としての我々を、思惟していることであるのは確かなことである。そこで限りなく無限に思惟する主体が、純粋統覚の意識なのである。
 純粋統覚は単なる論理的主体ではなく、端的にいって我々のうちにある意識なのである。 ここに我々人間には絶対に知りうることができないものとして、超越論的対象が唯一例外的に出現してくるのである。それがそれ故に根源的なものとして与えられているとしているのである。これを純粋統覚、超越論的主体と呼ばれるものなのである。そしてこのものは、我々の内的な現象にかかわるのみでなくて、外界の現象も含めてすべての現象認識に付随して、論理的主体としての役割を果たすのである。
 そして、それと同時にその現象の存在性、認識の真理性をア・プリオリに保証するのである。超越論的対象の世界とは叡知界である。人間は純粋統覚を通して叡知界に属していたのである。哲学は一切のア・プリオリな認識の可能、原理および範囲を規定するよう学を必要とするとしているのである。 


【注記】
  1. カント著『純粋理性批判』篠田英雄訳、岩波文庫2004年p16「以下『純粋理性批判』と略す」
  2. カントは「先天的」というのは「経験的」ではなく、経験を超えてという意味であるとしていることから、私見 では「先験的」と同意語と思われることから「先験的」と統一した、但し、引用文はその通りとした。 
  3. 時間と空間、時空形式など表現がさまざまであるが、カントに沿って「空間と時間」という表現に統一した。
  4. 『純粋理性批判』p57
  5. 『純粋理性批判』p86
  6. 『純粋理性批判』p87
  7. 『純粋理性批判』p59
  8. 『純粋理性批判』p58


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