『天皇の肖像』

多木浩二著  岩波書店(岩波現代文庫)

国際情報専攻 6期生・修了・研究生 増子 保志

     
       
   

   「御真影」……かつて天皇の肖像写真はそう呼ばれた。それは天皇と同一視され、礼拝と取扱いをめぐる儀礼は、天皇制国家を形成し維持する強力な装置となっていた。今日、よく目にする明治天皇の「御真影」であるが、実はこれは明治天皇を写した写真ではなく絵なのである。この絵を描いたのは、イタリア人御雇い彫刻家のキヨッソーネ(Chiossone Edoardo)である。キヨッソーネは大蔵省印刷局創設時に紙幣、切手、印紙、公債などの原版を制作していた。
 明治維新とともに、権力の交代が行われ、新しい政治形態が始まったが民衆の生活が江戸時代から急に変化したわけではなかった。一般の民衆にとっての天皇は関心を持つべき対象ではなかった。天皇と民衆の疎遠な関係は新しい国家の権威づけの妨げになり、これを打破するには、天皇を一般の人々の眼に「見える存在」にし、印象づける必要があった。
 明治維新後の近代国家体制確立に向けて,天皇をどう見せるかという「天皇の視覚化」は大きな問題だった。天皇は全国を巡幸することで民衆にとって見えるものとなり,さらに御真影がつくられる。理想の近代国家元首の肖像をつくりあげるためにどのような方法がとられたのか。天皇のイメージ作りがどの様に行われたのかについて「御真影」の形成過程を中心に考察するのが本書の主題である。
 今日、明治天皇の肖像として明治以後もっとも知られているのはキヨッソーネがコンテで描き、丸木利陽が写真に撮って複写をし、学校に下賜された肖像であろう。この肖像は「御真影」として礼拝の儀式を伴い人々の眼に触れることが出来たので、そのイメージが定着し、今日では大方の人が、体格も容貌も西欧的な匂いのするこの像を明治天皇として思い出す。
 しかし明治時代、人々に最も知られていたのは最初の御真影となる内田九一の写真であった。明治の初めころ、天皇はまだ全く見知らぬ存在であった。明治政府は国家元首として頂点に立つ明治天皇を人々に知らしめる必要があった。そこで行われたのが、明治五年から始まる「御巡幸」と呼ばれる天皇の全国行脚であった。
 また明治四年ごろから明治天皇の肖像を御真影として下賜し、その姿形を人々に知らしめようという計画が政府内部にもあり、また外交上の理由から天皇の肖像が必要であった。さらに宮中の様相も西欧に見習って、欧米の各国元首や天皇の肖像を飾ることが計画されていた。明治六年十月、内田九一は明治天皇の軍服姿を撮影した。その肖像が複写されて、各府県に下賜された。この時点で初めて具体的に天皇の容姿が認知され始めることになった。

 あたり前のことではあるが、明治天皇は初めから明治天皇ではなかった。弱冠15歳で即位した若者に、その時点で完成された帝王像を求めても、どだい無理な話である。往古から連綿と続いてきたとわたしたちが感じる伝統の多くが、実は明治の40数年をかけて創られたように、彼もまた明治を通して名実ともに明治天皇として創られたのである。本書には、即位して間もないころの天皇の肖像写真が載せられている。それは剛毅木訥(ごうきぼくとつ)ではあるが、若々しい気概にみちた個性的な初期の明治天皇の姿だ。ところが15年後のキョッソーネが描き、その後幾世代もの子供たちが最敬礼した「御真影」ともなると、いかにも威厳と自信、権力にみちた後期の明治天皇の姿となる。
 天皇の視覚化は、権力を見せる、あるいは臣下に見ることを要求することによって権力を維持するという目的を充分に果たすものであった。こうして「御真影」は天皇の存在をいたるところで反復可能な「支配のメディア」として成立したのである。




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