『源頼朝像 沈黙の肖像画』

米倉迪夫 著、平凡社ライブラリー577 

国際情報専攻 6期生・修了・研究生 増子 保志

     
       
   

 束帯姿の男が笏を持ち、畳の上に座している。安定した構図に支えられたその図像は単純明快である。描かれているのは、おそらく日本史上で最もよく顔を知られている人物の一人である。鎌倉幕府を開き、武家政治を開始した−源頼朝−その人である。
 この源頼朝像は平重盛像・藤原光能像と伝える図像とともに京都・神護寺に由来する。しかし、頼朝像を含め3つの図像に像主の名が記されているわけではない。単に『神護寺略記』という文書に依拠したものに過ぎないのである。本当にこの図像は源頼朝なのであろうか。
 本書は、中世肖像画における基本的な問題について検討を試みた上で、日本の中世肖像画の中で特に有名な神護寺の図像を中心として、その像主と制作年代について考察したものである。その結果、源頼朝像は足利直義像であり、13世紀に神護寺に納入された作品である可能性が高いことを指摘している。
 頼朝のイメージを人々の間に広め定着させる上で決定的な役割を果たしたのは写真による複製の出版である。中でも教科書などの出版物の挿絵に用いられたことによって、神護寺の頼朝像は歴史上の頼朝像の顔として確実なものとなった。
 私達はこうしたメディアの中での神護寺の頼朝像を通じて、頼朝のことをよく知っているという錯覚にとらわれてしまう。配流から平家打倒の偉業も、弟義経への仕打ちもすべてあの神護寺の頼朝像の顔を持った男が成した事と思ってしまう。
 肖像画への関心は、姿かたちもさることながらやはりその顔かたちに向けられる。東国に旗揚げして歴史上特筆すべき時代を開いた武人−頼朝にまつわる数々の挿話が神護寺の頼朝像の顔かたちに重ねられ、像主についての物語と創られた形が紡がれ頼朝のイメージはより具体的な相貌を帯びるのである。「頼朝らしさ」がそこに集約され、武人の理想的モデルとして不動の地位を獲得することとなる。教科書や美術事典、美術書に印刷された頼朝像の果たした役割は大きい。戦時中には戦意高揚を意図した「戦争美術大展覧会」への出品もなされた。
 肖像画は必ずしもその人のあるがままの姿ではない。肖像画はむしろ「形づくられる」ものだといえる。頼朝その人と、頼朝として描かれた図像との間には大きな隔たりがある。頼朝像に表現されたものに私達が見るものは、歴史的な事実として存在した像主とは別の、新たな創造された「人」だといっても過言ではない。
 神護寺の頼朝像を含めて我が国の歴史上、世俗人物の肖像画がなぜ描かれたのか、何に用いられたのか、こうした素朴な疑問を納得させるに足る答えは出されていない。単なる鑑賞のためなのか、あるいは他の用途があったのか。人が人を描き、人がそれを見るという行為には、描く人、描かれる人、描かせる人、見る人の関係が生み出す魅力あふれる空間が展開されているのである。




総合社会情報研究科ホームページへ 電子マガジンTOPへ