『〈日本美術〉誕生 近代日本の「ことば」と戦略』

佐藤道信 著、講談社選書メチエ 1996年

国際情報専攻 6期生・修了・研究生 増子 保志

     
       
   

 日本を代表する美術品といえば、何が挙げられるだろうか。奈良・京都に静かに佇む仏像や建築物、錦絵や武将の肖像画、富士山や桜を描いた風景画、陶芸品や工芸品それとも浮世絵だろうか。西洋での日本美術は浮世絵や工芸品に高い評価がなされている。我が国での評価とは大きなギャップが生じている。
 「日本美術」、「日本美術史」という概念は、明治時代に初めて作られた概念である。つまり日本美術(と現在呼ばれているもの)の概念と、それにまつわる言説というのは明治時代に創り出されたものである。さらに言えば、そもそも「美術」という言葉自体、明治に成立したものなのである。我が国で「美術」という語が初めて用いられたのは、明治六年(1873)のウィーン万博の参加においてであった。以後、「美術」の名称は、明治九年に工部省に設置された工部美術学校という学校名や翌年に開かれた内国勧業博覧会の出品区分名称として使われた事で社会的に周知されていった。「美術」という言葉は、明治政府による官製用語として成立し、その移植と普及も国家の主導で行われ、殖産興業という経済政策の中で作られたのである。
 「日本美術」の創出は、明治日本の近代国家政策、すなわち西洋化政策の一環として進められた。つまり「日本美術」は、そして「美術」そのものは、必然的に西洋を意識したものとして生み出されたのである。私達が考えている「日本美術史」が意図的に“創られた一つのイメージ体系”であることを端的に示すものが、我が国が目指した西洋における日本美術イメージである。それは、19世紀のジャポニズム(日本趣味)の中で形成されたものが、ほぼそのまま現在にも続いている。
 欧米諸国の嗜好と需要に答えるために、明治政府は殖産興業による工芸品の振興と輸出を図った。農商務省を担当部署として、ジャポニズムに対しては、経済政策で対応したのである。
 一方で日本国内の古美術保護によって古美術の海外流出を防ぎつつ、古美術品を中心に日本美術史が編纂された。日本初の官製美術史『稿本日本帝国美術略史』を編纂したのは宮内省である。つまり欧米に対する日本美術観は、農商務省の経済政策が助長し、日本の日本美術史は皇国史観に基づいて宮内省が編纂するという、政策上の使い分けが行われた。そこに欧米・日本との日本美術観のギャップの原因があろう。
 しかし、この『稿本日本帝国美術略史』は、そもそも国内的な必要とういうより、1900年のパリ万博出品のために編纂されたものであった。一等国たるべき国家イメージ戦略として、当初から外向きに描かれた「自画像」だったのである。それは、20世紀に向けた東洋の盟主としての皇国日本の宣言でもあり、内容も天皇ゆかりの美術を中心に、歴代の支配階級の美術で構成されている。
 日本美術観は、西欧向けには歴代支配階級の美術で構成された。ところが西欧での日本美術イメージの中核をなした浮世絵と工芸品は、庶民階級の美術であった。日本における日本美術が支配階級の美術で構築されたのに対して、西欧の日本美術観は、庶民階級の美術で形成されたのである。
 創られた2つの日本美術観のこうしたギャップは、現在においても続いており、今後、「内と外」での日本美術の評価の差異を如何に埋めていくかが課題となろう。




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