「東武練馬まるとし物語 第三部」

その一 「点を線に」

国際情報専攻 3期生・修了  若山 太郎 

 3年前、電子ブックという形で、それまで連載され7話が1つになった。その続きも第二部として書き終わり、1年の月日が過ぎた。
 爽やかな季節、2006年の春。
 その電子ブックのヒット数が凄いと聞いた。
 研究科の後輩の方々以外でも、ネット上のことなので、この話に関連する何かしらの言葉が検索され、読んでくれる人がいるのかもしれない。

 これについては、あまり実感はない。店のお客様から、ごくたまに、ご存知なことをおっしゃっていただけることがある。
 細かいことはさておき、お声がかかり、再び書き出すことにした。

 僕は、東武東上線の東武練馬駅南口近くにある「とんかつまるとし」の三代目の店主である。店は今年で35年続いている。
 始めたことがある。
 それは、「練馬商人会」を昨年12月に立ち上げたことだ。
 きっかけは、その2ヵ月前、練馬区のタウン誌「アサヒタウンボイス11月号No.20」のコーナー「ねりま生活応援団」で、地元きたまち商店街が紹介され、「まるとし」もそこで記事になった。
 この取材をした記者に頼まれ、以降、僕の友人がいる商店街・商店会・商栄会が次々と紹介された。
 これまで商店主として日々活動する中で、商店街という枠を越えて、気が合う商店主同士の交流や、実践的な話し合いができる場を切望していた。
 それによって自店の活性化、ひいては地域商業の活性化に繋がっていくのではという想いがあった。

 昨今、「新連携」支援ということで国をあげて中小企業連携を進めている。
 「連携」とは、各企業がお互いの強みを提供しあい、連合体で効果的に事業を進めていくことを意味する。特に経営資源が不足がちである中小企業にとって、連携は成長するための重要な用件になるそうだ。
 個店の多くは大型店の台頭などにより、多くの顧客が流出するという深刻な状況に置かれている。
 それを打破するためには、自店だけで対策を練るよりも、むしろ外部の要素を効果的に取り入れることで、これまでにはない強みづくりを行うことも1つの活性化策となる。つまり、個店の連携対策が求められているのである。
 このような背景に、昨年7月から12月にかけて、東京都商店街振興事業で、「連携」による個店活性化を考えるというテーマの「若手商人研究会」に僕は参加した。

 すべては偶然、いや必然だったのかもしれない。
 こうした研究会によって、自店の連携づくりについて、いろんな角度で学べると、先のタウン誌の記者に話したことで、表紙を飾る話になった。
 テーマは、漠然と考えていた。同世代で、素直で飾らずに話せる、店に対しては人一倍努力している、地域が少し離れている個店同士を連携するということで「練馬商人会」というネーミングにした。

 それからというもの、好調な店の合間をみて、練馬区主催のセミナー等で知り合った大泉や石神井などの元気な店主に声をかけた。
  昨年末。正月早々に発行「アサヒタウンボイス2月号 No.23」の表紙にふさわしい場所ということで、「まるとし」の地元、北町にある浅間神社境内、下練馬の富士塚での撮影となった。
 最終的に集まった店主は9人。他にも声をかけた店もあったけれど、頭数を揃えるより、年末の忙しいこの時期に集まれた店だけでやっていくことになった。
 表紙の写真と共に、掲載された記事は以下。会に対する僕の気持ちが集約されている。

  『安全で安心して暮らせる街に欠かせないのが、地域コミュニケーション。
   ご近所同士のあいさつや交流の場として、再び商店街が見直されています。
   このような中、きたまち商店街の若山太郎さんは若手商店主を中心に、
   「練馬商人会」を発足させるといいます。
  「区内の他地域(ニュー北町商店街・大泉学園町商店会・石神井公園商店街)
   の商店主との交流を通して、それぞれの個店の活性化を目指すことで、
   商店街のみなさんと地域に暮らすみなさんが笑顔で元気になるきっかけ
   づくりをしたい」とやる気満々です。』

 具体的な活動はまだこれからである。ただ、今回集まった仲間それぞれが忙しく、定期的な会合はもうけることはしない。
 お互いの店を、買い物や食事に行った時に、話すことが会合代わりのような状態だ。商店街活動のイベントへのアイディアや経営についての実践的な生きた知恵など、これから長く付き合うことで、建前でなく本音の話ができる関係が築ければと思う。

 2月16日、「若手商人研究発表会」に参加した。この「練馬商人会」について事例発表したことで、東京都中小企業振興公社理事長賞を受賞することができた。この発表会には昨年に続き、2度目の参加であった。

 地域貢献の一環として、練馬の二大祭りの一つである「第19回照姫まつり」への一般協賛を「練馬商人会」がした。
  特に若い人は練馬に長く住んでいても、意外に地元ことを詳しくは知らないものだ。それは、日本のどこの場所でも同じではないか。
 今までこの物語でも、きたまち阿波踊りや、練馬のお祭りについては、なるべく詳しく書くようにしてきた。
 自分で知りえたことは、点でなく線のように、多くの方にその内容を伝えたいとの思いからだ。
 この「照姫まつり」については、前回の最後の話で詳しく書いた。お忘れの方は、振り返ってもらえればと思う(第20号参照)。

  4月23日「照姫まつり」。昨年は重臣役、今年は輿警護武者役での参加。輿警護武者とは、行列の時に、照姫・泰経公・奥方が乗る輿について警護する役である。

 早朝から石神井公園内の野外ステージに集合、立ち位置確認などのリハーサルを繰り返す。昨年と同じスケジュールで、公園近くの小学校で着替えもし、ここでも最終的な演技の確認をする。
 残念なことに、この日は公園内のステージでの演技を終えた時点で、雨のため、予定されていた照姫行列は中止になってしまった。
 時間の都合で、この演技の後から、妻や子供たちが応援に駆けつけてくれる予定だったので、その姿を見せられなかった。

 よかったこともあった。それは、「練馬商人会」の仲間であり、石神井公園商店街の「赤井茶店」の赤井さんに会場で話せたこと。
 赤井さんは、いつもは商店街内で餅つきなどのイベントに参加されていた。この日も、公園内東側ひろばの一角に商店街が出店したため、午前中から来場者に風船を配り、また千社札(照姫まつり限定シール)の機械に並ぶ方々をサポートするスタッフとして活躍していた。

 話は前後するが、その2週間前。
 4月9日、氷川台4丁目にある氷川神社の春の大祭に合わせた「神輿渡御行列」が行われた。練馬区無形民俗文化財である「神輿渡御の御供道中歌」と「鶴の舞」が披露された。
 それは、3年に一度の古式ゆかしい行事である。行列に参加する氏子の減少により、「まるとし」のある北町2丁目からも4人呼ばれ、僕や「練馬商人会」の仲間でありニュー北町商店街の「居酒屋むさし乃」の大野さん、地元の区議の方も一緒に参加した。
 氷川神社は、500年以上の昔から、鎮守として地域の人たちに親しまれてきた。社伝によると、本社創建は長禄元年(1457年)渋川義鏡が戦の途中、下練馬で石神井川を渡ろうとした際に、川辺に湧き出る泉を発見、兵を休めて須佐之男尊(すさのおのみこと)を祭り武運長久を祈ったことに始まるという。この泉を「お浜井戸」といい氷川神社はもともとそこにあったそうだ。

 行列出発時刻の一時間ほど前に、タクシーで氷川神社に到着。出店も多く神社の境内も飾りつけられ、華やかだった。
 早速、烏帽子に白装束の姿へと正装する。いただいた役割表の紙によると、行列では10番目の矛で前の方あった。とても重い。
 午後2時、神幸旗を先頭に、ご神体を乗せた神輿が「お里帰り」と称して、氷川神社を出発、神社発祥の地「お浜井戸」までの約800メートルを80人ほどの紋付はかま、白装束で正装した氏子が行列する。氏子たちは大太鼓の響きに乗って、「神輿渡御の御供道中歌」を歌う。
 神事を一目見ようと集まった地域の人たちでにぎわいを見せる。

 そして石神井の川べりに近い「お浜井戸」に到着して式典が始った。鶴の舞に先立ち、獅子舞が奉納される。続いて、小さく切った紙を編み上げた鶴の冠をつけ、紋付の羽織を広げて羽ばたくさまを表した鶴の舞が演じられた。この舞は子孫繁栄を表し、五穀豊穣を祈るもの。舞が終わると再び行列は神社へと戻って行く。かっては農村地帯だった練馬の面影を今に残す素朴なお祭りであった。

 当日の模様は、ケーブルテレビで放送された。あまりに人が多くて、その舞はよく見えなかったのだけれど、後日映像としてしっかりと目に焼け付けた。
 そこには、僕や大野さんの姿もしっかりと撮影されていたので、ささやかではあるが、「練馬商人会」のテレビデビューとなったようだ。

 以下、次号。


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