カフカの外的キャリアは、労災保険事務を所管する役所に長期勤続し、役人としてそれなりに昇進もしたという一つの現実的な世界のうちにあろう。生前には薄い短編集のみしか公にしなかったカフカの作家としての外的キャリアは、殆ど形成されなかったといって良いであろう。こうした彼の外的キャリアに見合う内的キャリアは、死後友人によって整理、公表された作品群のうちに表出されているに違いないし、そのような内的キャリアが創始・開発されてなければ、今日、カフカという存在は成立し得ない、と考えたい。
しかし、池内紀が「カフカはいぜんとして、見る位置によって形の変わる不思議なだまし絵そっくりである。」と警告するように、読者が、カフカの作品から暗喩や隠喩や寓意や解釈を引き出すことの愉しみに耽りやすいことは事実である。池内が称揚するように、カフカのストーリーテラーとしての腕の冴えを先ずもってジックリと味わうことが肝要であろう。
ここで私は、真面目で地味な役人としての外的キャリアに見合う(もっと言えば、それと葛藤し、統合に向かう)カフカにおける内的キャリアの一端を思い、イメージしようと試みるとき、文庫版4頁に過ぎない極短編小説「掟の門」にフォーカスしてみるのである。
(以下、斜線は「掟の門」からの引用部分)
掟の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。今はだめだ、と門番は言った。男は思案した。今はだめだとしても、あとでならいいのか、とたずねた。/「たぶんな。とにかく今はだめだ。」と、門番は答えた。
第1段落である。これを読んだだけで、私などはニヤッとしてくる。キャリアのことを考え続けている私にとって、実に多様にイメージを刺激してくるからだ。役所や城や裁判所を直接には想起させてはいないが、「掟」?「門」?「門番」?にカフカは何を感じたのか。我々は何を感じるのか。そして、これら‘感じられたもの’(フェルト・センス)に含まれる暗黙の意味や暗黙知は何であろうか、をこの小編を手に少しづつイメージを拡げてゆきたい。
掟の門はいつもどおり開いたままだった。……「そんなに入りたいのなら、おれにかまわわずに入るがいい。しかし言っとくが、おれはこのとおり力持ちだ。それでもほんの下っぱで、中に入ると部屋ごとに一人ずつ、順ぐりにすごいのがいる。このおれにしても3番目の番人をみただけで、すくみあがってしまうほどだ。」
「掟」は、複数の部屋でできている一つの構築物らしい。しかも、それは必ずしも物理的な構築物とは思えない。門番の力の誇示は、自分が権限を持つことを意味しよう。しかも各部屋には一人ずつ順ぐりに凄い力持ちがいる。ということは、ここには複数の人間がいるだけでなく、彼らは順ぐりで、例えば階層的な形で権限をもっているようである。だが、そこに階層的に権限を持つ人間の集団がイメージできるとして、その存在は一体何のためにか?
私はここで、この人間集団が、近現代において何かの仕事をするための組織というものではないか、と閃くことができる。権限者が階層的に配置されている仕事をする組織。ここには、一応誰でも中に入ること自体は拒否されていないように見える。しかし、ホンの入り口に入ってもいいよ、といわれるのと、本当の意味で人間として迎え入れられるのとでは、実は全然意味が違うことに男は何れ気がつくことになる。残念ながら、一般には、そのことに気づくのは、ズット後になってからである。
こんな厄介だとは思わなかった。掟の門は誰にでもひらかれているはずだと男は思った。……しかし、おとなしく待っているほうがよさそうだった。門番が小さな腰掛けを貸してくれた。門の脇にすわってもいいという。男は腰を下ろして待ちつづけた。何年も待ち続けた。
この男は個人だ。しかし個人の誰もが組織から暖かく迎え入れられ、組織の中で仕事をして生き生きと生きてゆくことができる、ということを少しも意味しない。組織の中で人間らしく仕事に関わって生きるためには、‘待つ’という消極的な戦術をとることも一応は考えられる。
その間、許しを得るためにあれこれ手をつくした。くどくどと懇願して、門番にうるさがられた。ときたまのことだが、門番が訊いてくれた。故郷のことやほかのことをたずねてくれた。……たずさえてきたいろいろな品を、男は門番につぎつぎと贈り物にした。そのつど門番は平然と受け取って、こう言った。「お前の気がすむようにもらっておく。何かしのこしたものがあるなどとと思わないようにだな。しかし、ただそれだけのことだ。」
個人は進んで組織のために努力する。滅私奉公の時代もあった。昨今は、個人目標と組織目標の共有・共生を図ろうとするMBOという考え方も現れた。いずれにせよ、個人と組織との間での貢献と報酬をめぐる相互的関係において、悲しいかな、嘗て個人が組織から真に尊重され、真に依存され、真に選択された時代はなかった、というのが私の本音である。門番が男に対して心理的に絶対的な優位に立っている状況は、鮮明に見て取れる。
彼は身の不運を嘆いた。はじめの数年は、はげしく声を荒げて、のちにはぶつぶつとひとりごとのように呟きながら。
A.フロムが資本企業社会にける近代人の基本的な「社会的性格」を、「権威主義的性格」、「自動人形」、「稀な自己破壊性」をもって構造的に把握したことを、改めて想起したい。また、田尾雅夫が「会社人間」においてみる「途方にくれる不安な個人」と「消極的自由との戦いを強いられる不条理な個人」との命題を改めて想起したい。私はカウンセラーとして、それら主に組織内個人を基本的に‘無自覚で弱い苦悩者’と考えている。
そのうち視力が弱ってきた。あたりが暗くなったのか、それとも目のせいなのかわからない。いまや暗闇のなかに燦然と、掟の戸口を通してきらめくものがみえる。いのちが尽きかけていた。死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝縮して一つの問いとなった。これまでついぞ口にしたことがない問いだった。
仕事人生における老いとその後の死。田舎から出てきた男の「問い」は未だ答えを得ぬまま残っている。男にとって最終的な納得感はないままである。最終的な納得感のみが人間にもたらす、山深い湖の水面のような静かさからも、最晩年の男の心は遠い。
「欲が深いやつだ」と門番が言った。/「未だ何が知りたいのだ」/「誰もが掟を求めているというのにー」と、男は言った。
組織の中に生きてゆくには、いくつもの幻想や倒置や錯覚などがあったが、男は単に‘無自覚で弱い苦悩者’として誠実であったにすぎない。
「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれと言って来なかったのです?」/命の火が消えかけていた。薄れてゆく意識を呼び戻すかのように門番がどなった。「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」
最終段落である。長年所属する組織が個人にとって意味するところのものは、それらが言語化されていようがいまいが、組織にとっても、個人にとっても一回性のものであり、独自のメタ・コスモス(メタ私)のうちにある。「この門は、おまえひとりのためのものだった。」と語るカフカの内的キャリアを、私はこのように感じ取った。
バレリーナの森下洋子は、「杉村(春子)先生のお墓に刻まれた「女の一生」のセリフが私の玉手箱に入っている。/「自分で選んで歩き出した道ですもの」/自由に生きるということは、ある意味で「刑」なのだ。自ら選んで進んだ方向へ、自分をきつく拘束しなければならないからだ。」と書いた。私は、組織内の個人も、このような「自覚的な行為者」へと自己変革してゆかなければならない時代にある、と思う。
さて、いま組織にいるあなたは、自ら知らないうちに「掟の門」を作り出していないであろうか? (完)
[引用文献]
カフカ短編集 池内 紀編訳 岩波文庫
森下洋子 朝日新聞 2006年3月23日 コラム「こころの玉手箱」3
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