「由利子、ありがとう!」

博士後期課程・総合社会情報専攻 1期生・修了  山本忠士 

  
  
 後期課程に入学したのは、62歳の時だった。65歳の定年時期と博士論文提出時期が同一であったことから、3年間で論文を完成させること、それが出来なかったらあきらめること、を自分に言い聞かせた。   
 おおまかに3年間の方針は、(1) 1年次で博士課程修了に必要な12単位を修得し、後の2年間は論文だけに集中すること、(2) 論文提出要件の学内『紀要』論文5編は、1年次2本、2年次2本、3年次前期1本とし、博士論文に組み込むように内容を積み重ねる方式で臨むこと。(学会のレフリー付『紀要』に出せば、掲載論文数が少なくて済むが、学内『紀要』の論文と博士論文を関連させて5編で進める方が、論文作成の流れがよくなると考えたためである)、(3) 論文テーマは、修士課程から進めていた近代中国の「国恥記念日」を深化・発展させること、(4) 気分が乗っても午前1時までには寝ること、とした。   
 ほぼ所期の目標どおりに進めることができたのは、研究環境に恵まれたことによる。環境を味方にしなければ、仕事を持った社会人の論文作成は出来ないからでもある。   
 研究には良質の資料が欠かせない。近代中国研究の基礎資料は、勤務していた亜細亜大学の図書館に東大教授だった植田捷雄先生の近代中国関係蔵書「植田文庫」(約5千冊)があった。『日本外交文書』、『中華民国史档案資料匯集』等々たくさんの中国資料もあった。勤務時間に制約のある大学職員にとって、日常的に手の届くところに資料があったことは有り難かった。また、図書館の同僚に依頼して、必要な論文のコピーも他大学図書館から取り寄せてもらうこともできた。外部機関では、東洋文庫、教科書図書館、外務省の外交資料館等を活用した。ただし、平日に限られるので、思うに任せなかった。   
 1929年当時の中国国民党常務委員会関係資料の閲覧には、少し苦労した。台湾の友人にあれこれ依頼して、ようやく台北の国民党本部の資料を閲覧することができた。ただし、複写、写真撮影は厳禁という条件であったため、書き写さざるを得なかった。複写サービスがあれば、半日で全て終わる分量であっても、手書きの中国文議事録は判読しづらい部分があったり、書き写した自分の字が判読できなかったりした。一日中、中国文相手にやっていると手も頭も疲れてしまい、もともと下手な字が一層乱れたためである。挙句の果てに、補充・確認等のために再度台北に飛ぶ羽目になった。   
 最終段階で最も時間がかかったのは、「脚注」の扱いであった。「脚注」処理は、必ずしも統一されていない面もあり、パソコン処理にも頭を悩ました。修士段階でもっと徹底的に「脚注」の扱いを習熟すべきであったと猛反省している。学内『紀要』を見ても、「脚注」は不統一である。本研究科共通の「脚注」方式があってもいいように思った。   
 妻には、迷惑をかけた。私が大学院に入ってから、妻と私の生活時間はこれまでと違ってきた。そのため夫婦の心理的距離が広がったような寂しい思いをさせたようだ。片付かない部屋、増える資料は、妻の神経を刺激した。それでも妻のサポートがなかったら、続けられなかったであろう。足元の家庭平和は研究の前提条件だ。由利子、ありがとう。   
 近藤大博先生。荘光茂樹先生。乾一宇先生。本当にありがとうございました。   
 最後に、通信制大学院を開設いただいた日本大学に感謝いたします。

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