「見えない力が論文を書かせてくれた!」 博士後期課程・総合社会情報専攻 1期生・修了 宮西ナオ子 |
おかげさまでこの3月に博士課程を修了し、博士号をいただけた。これもひとえに指導教官の上田邦義教授、副指導教官の宮本晃教授、近藤大博教授および諸先生方、さらには励ましてくださった多くの学友、家族・友人に加え、尊敬してやまぬ観世流シテ方能楽師の足立禮子師をはじめ、今回の論文で取材させていただいた多くの女性能楽師達の美しくも気高い生き方に支えられてきたからである。
何度「休学したい」と申し上げたことか……。私はフリーのライターである。修士を修了するだけでも、時間的・経済的にぎりぎりだったのだが、博士ともなると研究や論文に割く時間は尋常ではない。生涯教育の一環のような気持ちで修士課程は楽しく修了したが、博士課程は全くコンセプトが異なり、専業学生にならねば、もはややっていけぬことに気が付いた。3年目、ついにハムレットのように「休学か、論文か」の決定を求められた。仕事は乗りに乗っていた。今ここで休むのは命とり。経済的にも不安が募る。とはいえ仕事をしながら続けることは不可能である。
しかし最終的には「論文」を選んだ。なぜか。医療関係の記事を執筆していると、間近な死と対峙している医者や患者さんに余命の過ごし方や生き方・使命について聞くことが多い。そこで自分が「余命1年」と宣告されたとしたら何をするかと自問した。将来的に長生きをすると考えれば迷わず仕事。しかし「今、ここ」を考えるならば論文……。脳幹部分が迷わず「論文を!」と求めた。ここで改めて覚悟をするに到ったのだ。
最小限の仕事以外は、すべて休む宣言をし、交友関係も一気に絶った、電話にもいっさい出なかった。以後、千駄ヶ谷の国立能楽堂の閲覧室に通いつつ、自宅でPCに向かう日に没入した。それにしても執筆以外で修士の時とは異なる葛藤が激しかった。修士では理解が深い指導教官の指導に従えばよかったが、博士課程の中間発表時では、さまざまな分野の教授が異なる立場から意見を述べられるために、戦国時代状態になる。専門家の間ではよしとされることが否定されたり、通常、講演で話している話し方が悪いといわれたり……。ふがいなさとイラダチで肝臓も弱り、不安やストレスで免疫力が一気に低下した。中間発表の後は、家に戻ってからベッドに倒れ込み、3日間くらい起きあがれなくなった。狭心症のような痛みが心臓を襲った。
さらに論文執筆における形式遵守で、細かい作業に酷使された目はかすみ、使わない足は動かなくなった。夏には走ることさえできなくなった。イヌの散歩くらいはマンション近くで行ったが、たまたまお隣の方と門の前でばったり会ったら、私の姿を見てぎょっとされた。それほど風貌も厳しくなっていた。
しかし足立師の実技指導はできる限り続け、よろよろと舞った。足立師の師でもあって、女性能楽師の先駆けとして歴史に燦然と輝く津村紀三子師のことを思って、師の思いにふれるために得度もした。確かに「修士は美貌がけ、博士は命がけ」であった。
それにしても中年にもなり、かくも厳しい過程を継続できたのは、取材した女性能楽師の方達が一人残らず好きだったし、先駆者達の苦闘の歴史や彼女たちの凛とした生き方に恥じぬよう、自分の使命と役割を達成したいという思いからだった。彼女たちの悲願や努力や生き方をきちんとした研究としてまとめることだけが眼前にあった。それは、とても幸せな、この上もない至福の仕事であり、ライター冥利に尽きることでもあった。すると信じられないほどたくさんの偶然(いや必然)や後押しや励ましがやってきた。そして論文が書き上がったのである。まさに多くの女性能楽師の方達が言われるとおり、私も、「個」を越えた思いが奇跡を起こすことを実感した。実に貴重な体験だった。