青春のなかった女性たち
―「伊豆の踊子」の時代―

      文化情報専攻 四期生・修了・科目等履修生 具島美佐子 

  
「伊豆の踊子」の頃
  川端康成の「伊豆の踊子」は、近代日本文学の中での代表的青春小説とされている。発表は大正十五年であるが、作者が実際に伊豆を旅したのは大正七年の十月であり、そこには主人公である旧制高校の生徒や踊子の少女等の大正期の十代、二十代の青少年が登場している。私が「伊豆の踊子」に惹かれた理由の一つとして、そこには青春時代を体験できなかった女性の姿を見ることができたからであり、文学的な考察は多くの評論家によりなされているので、むしろ大正期の庶民階級の若い女性の人生模様が描かれている点を強調したいのである。
 踊子薫の兄夫婦、栄吉と千代子は二十四歳と十九歳という設定になっている。これは当時の庶民の若い夫婦像であった。私の父方の祖父母も大正七年頃に同じ位の年恰好であった。彼らは大正四、五年頃に結婚した。祖父母は若い頃に設けた二人の女児を亡くしているのであるが、「伊豆の踊子」の中でも栄吉が高校生である主人公に、二人の子供を誕生後まもなく亡くしていることを語っており、当時は早婚で多産であったにもかかわらず、乳児の死亡率も高かったことを伺い知ることができる。
 私の祖父母は結婚後の第一子である女児を亡くし、大正八年に祖母が二十歳の時に第二子である父を儲けた。その後また女児が生まれたこともあり、父は祖父の母親と次兄夫婦の住む家に預けられたようである。第三子の次女は、先に女児が亡くなっているので大切に育てられたが、二、三歳になった頃に一族のお墓参りの際に転んでしまい、それから数日で死亡してしまった。おそらく内出血でもしたのを周囲が気づかなかったのであろう。その次女の死と入れ替わるように三女が生まれ、祖父母はその後さらに男児を二人儲けて、父を含めて三男一女が成人した。しかし六人の子供の内二人を亡くしたというのは当時の医療も貧困であったことや、母親や周囲の知識の乏しさからであった。「伊豆の踊子」の中では旅芸人という特殊な生活からの早産で乳児が死亡しているが、それに比べれば祖父母はいくらかましな境遇であったらしい。
 十代の母親が我が子の死を体験するというのも現代人から見れば過酷な状況である。当時の女性は早婚であったが、初潮の年齢は現代人よりも高かったのであり、この祖母も含めて初潮を見てから五年とたたずに結婚した女性も多くいたのである。庶民階級の女性は青春期への突入が結婚生活の突入とほぼ同時期であった人も珍しくない。彼女たちは青春のない人生を送ったのであった。私の母方の祖母は、父方の祖母よりも四歳下で、地方都市での女学校生活を送った。二十歳を過ぎてから結婚したので、当時の女性として平均的な青春期を過ごしたようである。

青春なき女性の結婚
  父方の祖母は結婚の話が持ち上がった頃、専売公社の関係の工場で女工として働きながら十六歳くらいになっていた。祖母の家は母子家庭であったので早く結婚することはその母親にとっても安心できることであった。秤職人であった祖父は大勢の兄弟の末子であり、やはり父親は死去していて、六十歳を越えた母親の目の黒いうちに身を固め、安心させてやりたいという気持ちがあったと考えられる。また祖父の上の兄二人には子供がなく、直ぐ上の兄には女児がいるのみであった。姉も二人いたようであったが子供には恵まれなかった。それで祖父の妻には容貌の美しさよりも、健康な子供が授かるような少女であることが条件とされていたようである。
  この曾祖母は末子夫婦には万事につけて寛大であった。結婚後、二人は姑と次兄夫婦の住む家の近くに居を定め、姑の希望で祖母は和裁の稽古に通うこととなった。しかし裁縫の腕はあまりあがらず、そこで知り合った同年輩の未婚の仲間と遊んで帰ることが多かった。ただその遊びというのは、若い女性たちがお喋りに興じながら商店街を歩くようなことを意味していたらしい。個人のプライバシーなどという観念のない時代、「○○さんの嫁さんが遊んでいる」という情報が姑の耳には達していたのであった。厳格な家庭であれば離婚にまで発展していたかもしれなかったが、周囲の大人たちは大目にみていたのである。ほんの僅かな期間、祖母はそこで青春の一部分というものを味わったのであろう。結婚してから青春期に入り、生涯の中での唯一自由な時間をもったのである。祖母は自我に目覚めたのかもしれない。結婚そのものは強制されたものではなかったが、同年輩の未婚者が羨ましくもあったのであろう。もしも夫や周囲がそれを厳しく追及すれば、祖母はそこから脱出し、別な人生を歩んでいたにちがいない。しかし周囲の寛容さや、祖母自身が世の中の厳しさを知っていたこともあったのであろう。青春の片鱗を味わいながら、人間的な成長を経て、家庭の主婦として生きることを再確認したと思われる。
  その後はひたすら夫や夫の親族と協調する生活で、曾祖母にとって初めての男児の孫である父を出産し、嫁として評価されたのであった。父の名前は公務員をしていた祖父の長兄がつけたのであった。さらに曾祖母の希望で父は祖父の次兄の妻が養育することになり、最後には子供のいなかったこの義理の伯母と父が養子縁組をして、祖母の手に父が戻ることは永遠になかった。夫婦単位の家庭の幸せよりも、一族の幸せが優先したのである。しかしそれが当時の社会通念であったので、祖母自身はそれほど深刻に悩むことはなかったのかもしれない。夫の親族に評価されることで妻の座を確立させたのであった。当時は女性が一度妻の座から放り出されてしまうと再起できにくい社会でもあった。
  大正期の女性の労働は女工か女中になるかであり、教育を受ける機会に恵まれた女性たちだけが教員や医師のような仕事に就くことができたのである。妻の座から降りた場合もまた女中奉公のような形で再起することも可能ではあったが、元の奉公先以外の場所では新参者として出発しなければならなかった。再婚する場合、世間並みの話では相手は数人の子供を抱えている場合が多く、育児の苦労が無い場合は高齢の男性や病弱な男性との再婚であった。女性が世間並みの再婚を拒否したり、また再婚にも失敗した場合は激動の人生を歩まざるをえないこともあった。様々な人生経験を経て、本当の幸せを手にした女性も僅かにいたことではあろうが、一方では経済的な事情から苦界に身を落とすような女性もいた。永井荷風の小説等に登場する私娼には、初婚の失敗と実家の没落が同時期であったような不幸な女性が多いのである。
  女性の参政権等の地位向上の運動もあったが、大半の庶民階級の女性たちは運動すら知ることもなかったようである。父方の祖母は健気に生きたが、祖母と同年輩の青春なき女性には狡猾に生きた人もいた。昭和に入り、祖父の長兄が再婚した女性もそうした一人であった。

踊子のその後
 「伊豆の踊子」の中の女性たち、踊子の薫や兄嫁の千代子、雇いの百合子たちのモデルは皆青春を味わうことのない人生を送ったのであり、作品の中で大正期の庶民階級の若い女性の生き方が忠実に投影されているのである。踊子のモデルはやがて小料理屋の女主人となるがその背後にはパトロンのような男性の存在が推測され、栄吉と千代子夫婦もその近くで生活したのであろう。私の父方の祖母は満六十五年の生涯のうち、ほぼ五十年を堅実な主婦として生きた。経済的な事情もあり、一時期子供のいない祖父の長兄宅に一家は同居した。祖父の長兄が公務員を退職してから建てた家は東京郊外の中野にあり、祖母は病弱な義姉に代わって家事を切り盛りした。夫の親族を嫌って姑とも同居しなかった義姉ではあったが、強盗が入ったこともあり、夫の末弟の一家との同居に応じたのであった。そのような祖母の苦労もあって、父の妹である叔母は昭和十年代の初めに私立の女学校に進学することができた。やがて祖父の長兄の妻が死去し、既に六十歳を超えていた長兄が周囲の反対を押し切って三十代半ば位の女性と再婚したので、一家は下町に住居を移した。しかしそれを機会に祖父は独立して町工場をもつようになった。一方祖父の長兄は、後妻となった女性に再婚後一年も経たぬうちに裏切られた。その女性は夫の財産を横領して行方不明となったのであった。
  祖父の長兄は明治十年ころの生まれであり、晩節を汚したという世間体や、老後の夢をこわされた失意から親族と縁を切り、養育院に入居をした。そしてその終の棲家で余生を送り、私が生まれた昭和二十七年頃まで生存していた。青春のなかった女性たちは女性の地位が確立されなかった時代に懸命に生きたのであろうが、その功罪は相半ばしたものであった。「伊豆の踊子」は未完であったとされているが、それでよかったと私は思う。青春小説「伊豆の踊子」は続編が書かれなかったので、青春の抒情が永遠のものとなったのである。


参考文献:『近代文学鑑賞講座 第十三巻 川端康成』 角川書店 一九六五、六。   
 

 


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