『明治国家と近代美術―美の政治学』

佐藤道信 著、吉川弘文館 1999年

 国際情報専攻 6期生・修了・研究生 増子 保志

     
       
   

 「日本美術」は明治期、国家によって作られた。明治維新後、西欧のシステムを模倣すべく、明治政府は西欧の国家と美術の関係を参照しながら、「日本国家としての美術」の構築を目指した。
 例えば、「絵画」「彫刻」「風景画」「肖像画」「写実主義」「自然主義」など今日私達が普通に使用している美術用語は、いずれも明治以降に登場してきたものである。そもそも「美術」という言葉自体、江戸時代以前には存在していなかったのである。
 近代日本で形成された「日本美術史」の理念的支柱となったのは、国家主義と天皇制を背景にした皇国史観であった。反面、日本における「西洋美術史」は、西欧の直移入として始まったため、基本的に皇国史観とは関係ない。一方、日本における「東洋美術史」も皇国史観を背景に成立した。日清戦争の勝利によって「東洋の盟主」となった日本が、国威発揚の一環として構築したからである。
 「日本美術史」の構築は国家事業として行われ、皇国史観を軸に史実と作品の意義が再編成されたことである。そのため、皇室関係の美術品を核として、歴代の支配階級の美術と仏教美術すなわち権力・宗教機構の美術を中心に「歴史」像が構築された。その目的は、植民地化の危機を回避するため、不平等条約の改正に向け、国力増強(軍事・経済力の強化)とともに、西欧に伍しうる「一等国」としての歴史や文化を整備することにあった。「日本美術史」はまず西欧向けの日本の「自画像」として描かれた。その意味では、「日本美術史」は、造形美の歴史を表現しているというよりも、思想としての歴史構築がなされたということが指摘されよう。
 近代日本の絵画は、日本画・洋画それぞれが、新旧両派に分かれて厳しく対立したが、現在に至る「日本美術史」の中では、なぜ両者ともに旧派系が著しく低い評価になっているのであろうか。低い評価というよりは、当時は新派系にまさる有名な大家がその後、社会的に忘れ去られてしまった例が多く見られた。それは作品自体の問題だったのか、それとも歴史化の際の評価の問題だったのか。
 あるいはまた、西欧のジャポニズムで高い評価を受けた浮世絵と工芸品が、西欧を指標としたはずの日本の「美術史」では、なぜ逆に低い評価になっているのか。近代の日本美術は、制作・評価いずれの価値観でも、西洋美術のあり方を強く意識してきたにもかかわらず、日本で「大家」とされた美術家が、当の西欧では逆に殆ど評価されていない現実はどのように考えればよいのか。我が国における「日本美術史」とは大きく異なる、浮世絵・工芸品に偏重した西欧での「日本美術史」観は如何にして形成されたのか。こうしたギャップは、作品自体の価値の問題ではなく、評価基準の問題なのではないか。つまりそこに何を求め見出そうとしたのかという、見る側の必然性や需要の問題であったのではないだろうか。
 明治二十年代に本格的な美術史研究が始まって以来、第二次世界大戦時まで、当代美術を扱ったのは主に美術批評であり、美術史研究が扱ったのはいわゆる古美術と言われる、それ以前の美術であった。
 明治以降、近代日本の美術を扱ってきたのは、美術史研究よりも美術批評や評論だった。近代日本美術の歴史化の作業が本格化するのは、昭和に入ってから、特に第二次世界大戦後の事である。そこでは、次々に新設された美術館や近代美術館の展覧会、それにタイアップしたメディア、ジャーナリズムが果たした役割が極めて大きい。
 近代日本美術史の形成は、客観的な史実の体系化というよりは、メディアによる社会通念の形成が先行した傾向が強く、まさにメディアによって「創られた日本美術史」と言えるのである。






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