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京都駅の西側、桂川西岸に桂離宮は位置する。17世紀のはじめに、八条宮初代智仁親王によって造営され、約2万1,000坪の敷地を有する。明治の中頃に離宮として宮内省の管轄となり、第二次世界大戦後は宮内庁が管理している。
桂離宮は、「日本の美の典型」「美術・建築の清華」と言われ、単純簡素を重んじる日本文化を代表する建築として、多くの文化人に支持され、日本建築の頂点に君臨している。その建築の美しさを賞賛したのは、戦前に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトであった。
桂離宮の発見者と言われるブルーノ・タウトは、1933年に来日、翌年に『ニッポン』を著し、簡素な日本美の象徴として桂離宮を絶賛した。タウトは著作の中で、伊勢神宮や合掌作りの民家は簡素ではあるが歴史の組み込まれた建築的な構造美として優れ、桂離宮の自然と建物との融合を賞賛した。その反面、日光東照宮については、世界のどこでもみられる権力者好みの俗悪的建築として切り捨てている。
1930年代は満州事変の勃発(1931・昭和6年)以来、戦時体制の進行にともなうナショナリズムが高揚した時期であり、日本文化論の立場を強固なものとした。戦時体制の進行は国民生活のさまざまな局面で耐久を余儀なくされ「贅沢は敵だ」のスローガンに代表される質素・倹約の理念が蔓延した。さらにその風潮は、経済的で合理的な設計を信条としたモダニズムの建築理念を勃興させた。ナショナリズム、日本文化論、モダニズムそれらはいずれも、「簡素美」を第一として、豪華な意匠を肯定するものではなかったからである。
桂離宮への賛辞は、戦後も続いていく。和辻哲郎は「比類のない美しさに打たれた」梅棹忠夫は「幻想の美の国」に「一種の白昼夢」を見ると様々ないわゆる「文化人」達が絶賛した。賛辞の累積は、桂離宮をめぐる言論界にある種の権力めいたものを創りあげる。その力は、桂離宮を見るものに賛辞を強制するようになっていく。あるいは賛辞以外の言葉を禁じるようになっていく。言説の累積が分厚い殻を作り、素直な気持ちで桂離宮に向き合うことは難しくなる。
桂離宮は現在でも日本美の典型として日本美術史や建築史に君臨している。しかし、それは創建時からそのような評価を受けていたわけではない。芸術性を発揮して創られた美術・建築作品も実は「言説という作品」によって創りあげられてしまうのである。
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