「素直さが勝負――私の修士論文奮戦記――」

文化情報専攻 外村佳代子  

「トリビアみたいな論文だな」私の論文を読んだ主人の第一声だった。主人は仕事柄論文慣れしている。ゆえに一番見せたくない相手だった。

  面接諮問の際、「日本語がおかしい。誰か傍に日本語のチェックをしてくれる人いる?」となんとも予期せぬコメントをいただいた。一様その日に備えて『面接諮問の受け方』なる本も読みそれなりに質疑応答の準備もしていたのだが、あまりに意表をついたお言葉に言葉に詰まってしまった。

「なによ。トリビアって」ちょっとむっとした私。「本文と関係ない無駄知識が突然出てくる」と主人は笑いながら言った。さらに少々いぶかしげな表情を見せながら、「この論文、通ったの?」とペン立てから赤ペンを指先で探しながら言った。「いいわよ! 自分でやるから。」と、乱暴に論文をひったくった。私はムッとしてはいたものの結局見て貰う事に(見てもらえばいい)なるだろうとタカをくくっていた。

「注釈が少なすぎる、出所ソースをもっとたくさん挙げるように。」という先生方からのご指示を頂き、その作業に数日を費やした。一度閉じてしまった本からその出所箇所を探すのは結構難しい……・。どこかからの引用なのだから必ずどこかにあるはずなのだが、数十冊の参考文献の中からの数行はなかなかみあたらない。

  英国に居を構えている私は、1月21日の面接諮問のあと所用で1週間日本に滞在しなければならなかった。提出期限は2月13日必着。英国からの郵送日数を考えると、2月5日が発送タイムリミットである。つまり正味わずか1週間ですべてを終わらせなければならなかった。 
 この2年間、日本と英国の距離にいつも悩まされていた。なかなかゼミに出ることも儘(まま)ならずフラストレーションがたまる。通常企業の駐在や長期滞在のならば2〜3年で帰れるだろうし、日本に一時帰国をする機会も多いだろうが、私はすでに住民票も移してしまっている身、学校に通う子どものことを考えてもおいそれとは帰れない。レポート期限が迫るたびに参考図書が手に入らずどれほど“アマゾン”や“OCS”のお世話になったかわからない。ちなみにアマゾンの海外向け最低ハンドリングチャージは、4,000円である。つまり520円の文庫本1冊が4,520円になるのである。注文数が増えればその分送料が加算され、しかも専門書やハードカバーは大きくて重い。いつも送料だけで10,000円を越えていた。さらにインターネット上で買える文献の数は少ない。私が選べるのはその狭い種類からのみで、しかも中身を見て選ぶのではないからタイトルに裏切られることもしばしばである。少々余談話になるが、英国はストライキが好きな国である。日本では信じられないだろうが、消防署ですら3ヶ月というストライキを決行する。その間に何かあれば軍隊が出動するのでそれほどの大問題にはならない(とはいえ、駐屯地からの軍隊の到着が遅れ、母子が火災で焼死したことがある)。だが、郵便配達となると軍隊というわけにはいかないのだろう。日本の実家経由で送られてくるはずの教科書が、ストライキのために郵便局に3週間も足止めを食らってしまった。実際は3週間のストライキの後たまった郵便物の配達が始まるので、手元に届いたのは5週間後だった。結局この時もリポート提出に間に合わなくなるので、まったく同じ本を日本の書店に注文し、日本に主張に行く主人の滞在先のホテルに送り届けてもらい、かろうじて提出期限内に間に合わせることができた。リポート提出のたびに少しずつ賢い方法を身につけてはきたのだが、一度はどうしても参考図書が手に入らず、リポート期限にももう間に合わない。やむをえず従姉妹に飛行機代を渡し、購入して英国まで持ってきてもらったこともある。
 
  こんなことを書いてしまうと、気の毒に……なんて思われがちだが、障害が多くなれば多くなるほどそれにかけるエネルギーは増大し燃え上がるものである。ちょっと恋愛に似ているかも知れない。大学院との長距離恋愛に手を変え品を変え、頭を使いどうにか2年間を成就したのである。
 
  自分の短気な性格をこれほど後悔したことはない。提出2日前のことである。可能な限り出所ソースを探し、内容をいじっている余裕はもう無かったので面接諮問時に先生方からいただいたコメント箇所、数点を修正しあとは主人が帰宅したら日本語のあやふやな箇所のチェックをしてもらうだけ。となった晩である。夜半に出張先のドイツにいる主人から電話があった。「直接バーレーンに行く」というものであった。冗談じゃない!私はどうなるのよ、と怒鳴りたい衝動を抑え、事情を話した。とにかく添付ファイルで論文を送るように。ということだったが、主人のパソコンは日本語対応になっていない。すったもんだの挙句、結局主人のチェックを受けることができなかった。ああ、あの時素直に“赤いれ”をお願いしていたらよかったのに……。はあっ……。
                        後悔―日没―Time Up
 土地柄、論文慣れした日本人大学教授や学者さんはたくさんいる。彼らにもお願いをすることは十分可能であったはずであるが、親しければ親しいほど気が引けてしまい論文添削などお願いができない。いつでも見てあげるよ。なんて言われていても、提出2日前になって「よろしく」なんて言えるはずがない。人間、素直さが勝負を分けることがあると松下幸之助氏も言っていた……。
 
  私の『奮戦記』はあまり参考にはならないかもしれない。だが強いて生意気を承知で、意識をなさったほうがいいと申し上げたい点は2つある。
  どんな小さな引用であっても、出所ソースは必ずメモをしておくことをお奨めする。膨大な資料を前にあらためて探すとなると、とんでもない時間がかかる。
 そしてもうひとつは、何事も前倒しに期限を考え、不慮の出来事に供えることである。締切日を締切日にしたら、何か別のことに時間と体をとられるとリカバリーが利かなくなってしまう(そう、12月27日に修論の為のリサーチでエジプトに行ったが、そこで病気にかかり1週間以上寝たり起きたりになってしまった。そんなの想定外。結局、後期リポートは2教科提出できず) 。
  そして何より、どんな環境下であっても楽しんでしまえばいいのである。
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