キャリア・カウンセラーのつぶやき(8)                                            

        メタキャリア(meta-career)へのアプローチ」

 

                             人間科学専攻 2期生・修了 笹沼 正典
                
現在、シニアSOHOメタキャリア・ラボ代表、NPO法人日本キャリア・カウンセリング研究会 理事

   

1.記号的世界のメタキャリア
(1)キャリアについて、私は、私が仕事に関わって生きてゆく時空間において、本質的過程としての内的キャリアが軸となり、現象的過程としての外的キャリアとの葛藤と調整を繰り返しながら、私という全体性と個別性に向かって主体的に統合していく過程である、と定義しています。ここで、キャリアの内的側面を、個人が仕事に関わって生きていくことの自分にとっての暗黙の意味と暗黙知を主体的に創始・蓄積し、言語化していく本質的過程と捉え、この側面を「内的キャリア」と呼びます。他方、キャリアの外的側面を、社会的準拠枠で捉えた個人の仕事に関わる側面(職業・職種・役割・地位・業績・評価・経済的位置・発揮能力・組織内で共有化された形式知、等)を追求・獲得してゆく現象的過程と捉え、この側面を「外的キャリア」と呼びます。

(2)この定義に従えば、現象的な外的キャリアの背後にあって普段は人の目に見えないが、日常的な仕事の体験過程で暗黙裡に創始され意味と知が言語化され、人間関係の中で明確化される内的キャリアが、外的キャリアに媒介されてより高い具体性と論理性の次元に統合される内的キャリアの発達形態こそが、キャリア本質的なあり方である、と考えることができます。
 もし、metaを“above,beyond,behind”(OXFORD ADVANCED LEARNER’S DICTIONARY)と考えるならば、このように統合されたキャリアを、メタキャリアと命名することができるでしょう。
 ここで留意したいことは、ここは未だ、仕事の現実世界である外的キャリアは言うまでもなく、暗黙の意味と暗黙知の言語化という厳しい戦いを経てきた内的キャリアもまた記号的世界であること、したがって、外的キャリアに媒介されて統合された内的キャリアの発達形態としてのメタキャリアもまた、私の仕事における記号的な日常世界として把握されることです。記号的なメタキャリアは、限りなく定性情報化が可能であり、個人と組織にとってキャリア開発情報として活かすことができるであろうと思われます。

(3)記号的なメタキャリアの事例として、ノーベル賞受賞者の田中耕一さんの場合を推察してみましょう。ノーベル賞を受賞する前の田中さんの内的キャリアは、自分の専門的研究に自由に没頭することができ、研究成果をあげて、研究成果を組織内外(含む海外)に発表することに最大の価値を置き、それを中核にしていたと思われます。他方、彼の外的キャリアについては、例えば役職は主任研究員であり、係長以上の管理職位への昇進試験は一切拒否していたと報じられています。
  受賞後に田中さんの内的キャリアは、単に自由裁量下での自分の専門的研究への専念とその成果の発表ばかりでなく、自分の研究方法と若手研究者のための自由な研究環境作りに対する関係者の理解の獲得などへ、重視すべき価値の領域を広げていきました。他方、外的キャリアについては、文化勲章をはじめてとする社会的賞賛と高い社会的ポジションの獲得、社内的には役員待遇への昇進と記念研究所長への就任など、実に劇的な変化を経験しました。田中さんにおいて、内的キャリアの変容がノーベル賞受賞後の外的キャリアの激変に媒介されて起こり、その内的キャリアがより高次の具体性と論理性を獲得していった経過が見て取れます。即ち、内的キャリアが軸となって外的キャリアと統合することで成熟化した内的キャリアが、記号的な世界における田中さんのメタキャリアである、と言えましょう。

2.「メタ私」としてのメタキャリア
(1)仕事の実感(フェルト・センス)からの逆襲
 私の場合、仕事をしていると、「私」という全体は、私が知っている私を超える存在である、という実感に時々襲われることがあります。さらに言えば、実は誰も「私」の全体は分らないのだという実感から、私が逆襲を受けることがあります。別な言い方をすれば、「あるがままの私の全体」は私が語ることができる自分からはみ出してしまっている、あるいは、「私」は私が知っている以上の存在なのだ、と感じながら日々刻々に仕事をしています。嘗ても、そうでした。
 個人は、日頃、このはみ出した自分を感じ、抱えながら、日々の仕事をしているのではないでしょうか。同時に、「あるがままの私の全体」は、上司や人事部が知っている私からも大きくはみ出してしまっていることを実感しています。組織は、個人についての「知っていることと知らないこととの差異にある深い闇」を宿命的に抱えています。大切なことは、組織がこの闇の深さを自覚しているかどうかです。このことへの無自覚や錯覚が、しばしば個人に対する鈍感さ、傲慢、不当な対応などを招いていないでしょうか。個人を組織の中で支えつづけている信念の一つは、「私」が感じるこうした実感と実感から生まれる暗黙の世界なのだと思います。

(2)「メタ私」の出現
 さて、中井久夫(2004)は、「私が現前させていない多くが私でありうるというふしぎをふまえ、「メタ私」「メタ世界(メタコスモス)」という概念を導入して、私の精神科医としての営みの中で遭遇したものに適切な位置を与えようと試みた。」と言いました。「私の精神科医としての営み」を、一般に「私が仕事に関わって生きてゆくこと」と置き換えることができるでしょう。私には、記号化(あるいは言語化)された内的キャリアを超える世界が存在する、という思い(フェルト・センス)が感じられます。その世界が、「私のメタコスモス」、短縮して「メタ私」です。(なお、中井は、「超越的」という言葉を使うことをためらって、「メタ」と言っていることにも留意しなければなりません。)
  「私を押し包んでいたの(香り)は、この、かすかな予感とただよう余韻とりんとした現前との、息づまるような交錯でもあった。アカシアは現在であった。桜は過去であり、金銀花はいまだ到来していないものである。それぞれに喚起的価値があり、それぞれは相互浸透している」と言うとき、中井は記号化された内的キャリアを超える世界を示しています。『私は私の「メタ私」を充分に知ることはできない。知ろうとするこころみの多くは幸いにも挫折する。』(中井、前掲書)なお、この世界を記号(あるいは言語)によって定性情報化し、キャリア開発に活かしていくことは、殆ど不可能に近いことは言うまでもないでしょう。

(3)「メタ私」を成すもの
 「メタ私」を創りあげる「予感と徴候、余韻と索引は、現実には、ないまぜになり、あざなえる縄のようになって現れる。」「徴候とは、必ず何かについての徴候である。それが何かは言うことができなくても、何の徴候でもない徴候というものはありえない。これに対して予感というものは、何かをはっきり徴候することはありえない。それ(徴候)はまだ存在していない。しかし、それはまさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。」「私が言う索引は必ずしもことばではないが、過去の何かを引き出す手がかりである。これに対して余韻はたしかに存在したものあるいは状態の残響、残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。」(中井、前掲書)

 『「予感」と「余韻」は、ともに共通感覚であり、ともに身体に近く、雰囲気的なものである。これに対して「徴候」と「索引」はより対象的であり、吟味するべき分節性とデテイルをもっている』。しかし、「徴候」と「索引」は、必ずしも言語化を前提としていない、と中井は言う。とすれば、私は、「予感」と「余韻」は、フェルト・センスの世界に属し、「徴候」と「索引」は暗黙の意味・暗黙知の世界に属すると考えます。「徴候」と「索引」を含む暗黙の意味・暗黙知のうち、言語化に成功したものが「意味と知」を形成し、内的キャリアを創始・開発する、と考えることができます。

3.新しいメタキャリアを提示する
  「生きるということは、予感と徴候から余韻に流れ去り索引に収まる、ある流れに身を浸すことだ」という中井久夫の言葉ほど見事なメタキャリアの定義はないのではないか、と思う。
 例えば、P.ゴーギャンが「我々はどこから来たのか、我々は何ものなのか、我々はどこに行くのか」と題された最後の大作(1897)を描くことは、「幻想・向こう側・野性・東洋・indian」という予感と徴候に満ちた世界と、「現実・こちら側・文明・西洋・sensitivity」という余韻と索引に満ちた世界、というゴーギャンにおける2つの「メタ私」を統合または再構成する営みであった、と言うことができます。(宮川淳1974)遠い本国に残した愛娘の急死を知らされ、衝撃を受けたゴーギャンが、ゴーギャンという全体性と個別性の回復に向かって再構築していくこの営みこそ、ゴーギャンのメタキャリアであると考えることができます。この営みは、記号も言語も超えています。

 メタキャリアは、仕事の体験過程が生み出す情動(エモーション)を引きずり、予感と余韻に満ちた実感(フェルト・センス)と、実感から気づかれる索引と徴候に満ちた暗黙の意味・暗黙知によって創られるメタコスモス、即ち、仕事に関わって生きていく「メタ私」と新たに呼ぶことができましょう。私は、新たに名づけられたメタキャリアこそ、まさに「私」という全体性と個別性に向かって主体的に統合していく生き生きとしたダイナミズムなのだ、と確信しています。

[引用文献]
 中井久夫2004「徴候・記憶・外傷」みすず書房
 宮川 淳1974「ゴーギャン 新潮美術文庫30」新潮社             (了)