連載・どうでもいいことばかり(第3回)        

       まさ
    柾ぶきの家

                       国際情報専攻 5期生・修了 寺井 融

   


 北海道斜里郡小清水町の農家に生まれた。知床の付け根、斜里岳の麓に広がる畑作地帯で、原生花園で有名な町である。「身体の弱い赤ん坊でな。よく熱を出した。そのたびに背負って、馬で町の医者まで駆けて行ったものだ」と父は後年、述懐していた。途中、羆のフンを見つけると、湯気が立っているかどうか確認して、走ったそうだ。このままでは子供を殺してしまうと思い、離農して札幌に出た。私は1歳3ヵ月だった。したがって、生家の思い出はない。30坪の平屋で、普通の畳ではなく、柔道畳を敷いていたという。  
  札幌での住処は、北大近くの父の伯母宅。物置を改造した、六畳と四畳半に台所の家だった。経済調査庁に入った父は、組織改組にともない道庁に移り、税務課に勤めた。「あの頃は幸せだったわ」と母は後々までいう。給料は安かったけれど、農場を売ったカネも少しあり、何よりも安定した官吏だったからである。  
  事情があって、父は民間に転職し、滝川、富川と転々とする。幼稚園は日高支庁の富川のお寺である。正確には、北海道沙流郡門別町富川となる。進駐軍がジープでやってきて、チョコレートやビスケットを配った。貰って帰ったら、母に「乞食のような真似をするのでない」と叱れた。二歳年下の弟がよく寝小便をした。赤犬の肉を食べると直るときいたので、近所の悪童たちと赤犬を追いかけまわした。草を断裁する機械をいじっていて、誤って自分の親指を大きくカットし、やっとつながっていた左手の指を押さえて病院に走り、縫合してもらった。油あげを買って帰る道すがら、揚げたての誘惑にかられて角を齧(かじ)ったら、ぱりっとしていて香ばしく、あまりにもおいしいのでついつい齧りながら帰宅した。半分ぐらいになっていて、母に苦笑まじりに「ダメよ」と言われた。5級スーパーのラジオがあって、「新諸国物語」や「1丁目1番地」をきいて育った。  
  小学校のとき札幌に戻り、市立大通り小学校に入った。担任は、目は細いが気品あふれる女の先生であったが、名前は失念した。天皇行幸があり、北一条通りに並んだ。秋になり、豊平町(現在は札幌市)の平岸小学校に転校することとなった。母に連れられて先生宅にあいさつに行く。「いつもは元気なのに」と先生に言われた。妙にもじもじしてしまって、母のかげに隠れていた。淡い初恋だったのかもしれない。  
  豊平町の真駒内基地に近い、中ノ島地区の一軒家に移った。近所に米軍のゴミ捨て場があり、格好の遊び場となった。また、母に「拾ってくるな」と厳命された。オンリー(米軍兵士相手の女性)がいて、可愛がってくれ、アメリカのお菓子をくれた。一年住んで、また引越しとなる。「環境が悪いから」と父は母に言っていた。  
  今度は南4条西20丁目である。柾ぶきの平屋で8畳、8畳、12畳に土間が16畳もあった。父は土間の一角を区切って、風呂場を作った。母が倒れた。結核性脊髄カリエスと診断された。自宅療養となった。父は材木屋から6aぐらいの四角い樽木を買ってきて、ベッドの枠組みを作った。板を渡し、畳を乗せ、石膏のギブスを置いた。母はそこに4年間横たわる。  
  祖母が柳行李一つ持ってやってきた。70代後半となっていたはずだ。13人生んだ末っ子(8女)の危機である。炊事をやってくれることになった。父は土間の一部に2畳間を作った。祖母の部屋となった。祖母は、ミカン箱に紙をはって仏壇を作った。「おじいちゃんがいるんだよ、家(長男宅)には仏壇があるんだけど……」と言っていた。わが家は浄土真宗なのだが、祖母は日蓮宗身延山派。朝夕お題目を唱えていた。浪曲と民謡が好きだった。ラジオでそれらがかかると、おばあちゃんに「やっているよ」と声をかけた。息抜きはパチンコだった。店に一緒に入り、こぼれ玉を見つけると、拾って持って行った。喜んでくれた。勝つときざみ煙草(「桔梗」とか「みのり」)とチョコレートに換えていた。  
  柾ぶきのため、よく雨漏りがあった。世間のほかの家はトタンぶきとなっていた。便所はもちろん水洗ではない。雪国特有の深い便槽であったが、冬には溜まり過ぎることがあった。熱いお湯を持っていって、凍っているあれを溶かした。また、何日か利用できた。どうしようもなくなると、雪をかきわけ、ひしゃくで便槽からくみ出し、家の前の畑にまいた。すぐ雪で隠れたが、春になると、落とし紙にしていた新聞紙が目立って困った。  
  炊事は、夏は炭を熾(おこ)してコンロを使い、冬は石炭ストーブも活躍した。水道はなく、ポンプの水だった。電気洗濯機も電気冷蔵庫もなかった。祖母は、学校が夏冬春の休みになると、ほかの娘たち(当時生きていたのは1男4女だった)の家に遊びに行った。私は板垣退助(百円札)を握りしめて、南1条にあった17丁目市場に買い物に行った。友達の母親に会うと「感心ね」と言われて、なんとなく恥ずかしかった。お米をといで、コンロでご飯をたいた。電気炊飯器はまだ持っていなかった。魚などを炭火で焼き、ベッドの母のコーチで味噌汁も作った。そういう日は、父も早く帰ってきて、いつもは居間兼食堂の12畳間にあったちゃぶ台を、母の8畳間に据えた。家族4人、そろっての食事となった。  
  祖母とは鰻屋や天婦羅屋にも行った。といっても勝手口に行き、鰻の骨や天婦羅の廃油をもらってきたのである。骨はカリカリに焼いてくだいて食べる。廃油で天婦羅やフライを揚げた。すべて病気の娘のためである。
  ある日、父はヤギを連れてきた。乳が出るという。朝、ヤギを原っぱに連れて行くのが日課となった。数日後、ヤギがいなくなっていた。敷き皮となって家に戻ってきた。牛乳嫌いの母が、ヤギの乳を飲まなかったためらしい。後年、雲南省の麗湖で、友とヤギ鍋をつついたけれど、「美味しいね」と言いつつ、少年の日のことが思い出されてならなかった。  
  日曜日になると、父はオートバイに兄弟を乗せ、豊平川上流での川遊びや幌見峠のキノコ狩りなどに連れて行ってくれた。オニギリ、水筒持参だった。ベトナムなどで、バイクに家族4人ぐらい乗せている光景を見ると、うちもそうだったんだよと言いたくなる。昭和30年代前半の話です。後半に入ると、トタン屋根の家に移った。父の勤めも、小企業から一流大企業に替わった。電化製品も増えていき、電話もついた。