「継続こそは力なり!!!」
フランスの不敗の名将フオッシュ
―If you should continue into an action you'll be get become powerful―.

国際情報専攻 4期生・修了 長谷川 昌昭(科目履修・研究生・博士後期を目指し在学中)



はじめに
  「継続こそは力なり!!!」は最高に好きな言葉で、我がスタンスでもあります。
  出典は定かでありませんが、仏の唯一の原子力空母の名は「フオッシュ」です。その名はフランスでは、子供でも知っていると仏のエナ『ENA Ecole Nationale d’ Administration国立行政学院 ご承知の通り、仏には普通の大学の他に高度の専門家を少数精鋭で養成するグランド・ゼコールと呼ばれる学校群があり、パリ祭のパレードでは先頭を粋な制服で行進するお馴染みの国防省理工科学校(ポリテクニーク)やサルトルを輩出した高等師範学校(エコール・ノルマル・シューペリュール)が著名だが、ENAもその一つで、その卒業者はエナルクと呼ばれ、仏はデモクラシーの国ではなくエナルシーであると言うほどに、ジスカール・デスタンやシラクは同校出身者である。』に留学経験のあり、仏の県の副知事として行政を研修された方が仰っていた記憶がある。
1 英語との出会い
 本格的な英語との出会いは、日大の三年生の夏でした。
 当時日本赤十字社の東京都学生奉仕団に所属して、身体障害児に夏に水泳指導や救急法・水上安全法の指導・奉仕の活動をしていた。
 当時の東京には数箇所の米軍基地や米軍専用住宅地があった。そこの夏期の水泳場と体育館の管理・指導・監視という奉仕活動を米国赤十字社と日本赤十字社の提携で実施されていた。資格は日本赤十字社の水泳指導や救急法・水上安全法の有資格者と大学三年以上の英語の素養が要求されていて、学生アルバイトとしては、最高の待遇で週44時間のフレキシブル・タイムテーブルで$100の報酬であった。為替レートは$1は\360の時代で、二年後の大卒初任給は、\9,800.-の時代でした。
 但し 期間は毎夏5月23日〜9月23日の4ヶ月間、従って その報酬は144,000.-と恵まれていた。幸いにも実技の泳法・救助法等と簡単な英会話でパス採用されて、二夏を英語のみの世界で過ごした貴重な学生生活を体験し「異文化に学んだ」。
 バイトとは言え管理・指導・監視という奉仕活動は、総て相手は米国軍人とその家族であり、現在の代々木の参宮橋近くの代々木公園一体は米軍専用住宅地であり、出入りは総て身分証明書の呈示と所持品検査と行先を明示し、サイン後に施設に入り、そこは治外法権の場でした。
 今流のライフガードのインストラクターの走りでした。その後に米軍座間キヤンプで米国赤十字のインストラクターコースを学ぶ機会に恵まれて、スペシヤリストという地位を得て、日本中の米軍施設出入自由と米軍専用バスの無料利用特典が付与された。
  管理・指導・監視であるしことはRegulationを遵守させるのが主な仕事で、上司はLeonard Mark米陸軍曹長で、従わない米国人には、上司が対応する場面もあって、子供が二度の規則違反をしたので、彼流にKick outと言うとI report to my father he is Major, he go to fire you.と言い返されたこともある。Fireとは「火事」としか知らずに一寸したミスにYou go fire just now !と言われても解雇とは解らずに、「何処が火事か」と問い返して、飛んだ火に油を注ぐことになった失敗も経験し、兎に角必死に英文に親しんだ結果は、二夏を楽しく豊かに暮らせた。

2 継続そして継続と体験の蓄積で知恵
 その頃は(昭和32年1957年)映画のロードショウは\150.−でした。英語に慣れるために豊富な財源は映画に費やして週に二度はロードショウを観に行って、ボールペンの先に懐中電灯の付いたもので、セリフを書き留めて、帰りの電車やバイト先での荒天の暇な時に暗記したものです。
 一ヶ月程で、電話のベルも怖くなくなり、This is Hasegawa speaking sirが自然に出るようになり、代々木駅から目黒へ帰る電車の中の会話の日本人の話し声が異質な響きに感じられる程に、繰り返し続けたことで、体験を積みつつ対応の知恵も徐々に蓄積された。
 将に 継続は力です。
  Marak米陸軍曹長の奥さんは広島出身の日本の方で、Bubと言う子供とメイドさんの四人暮らしで、二階建ての二棟続きの下士官用宿舎は階下はリビング、ダイニング、キッチン、にエントランスホールで、二階には、バスルームと寝室はご夫妻用の他に、三室もある広い芝生に囲まれて、東京一の住宅地で現在の田園調布の様な佇まいで、リーダーズ・ダイジェストかアメリカ映画の世界でした。
 時折10日の給料前週の金欠の時に晩餐に招待され、シヤワーを浴びてのご馳走は生海老のカクテルや骨付きハムとかビーフストロンガーに温野菜に、トバスコを効かしたピザなどが未だに忘れられないメニユーでした。夏の夜は早く10時を過ぎると宿泊の準備をしてくれ、予備の寝室に幾晩か泊めて頂いたことがある。軍人である彼は朝は早く7時には軍服姿でBuickで出勤して行った。
 酔いが廻ると出身地のカリフォルニァや初年兵を過ごしたノースカロライナの話に弾んで、朝鮮戦争の実戦の経験やらもゆっくりとYou see!と話に花が咲いた。全く知らないことばかりで日比谷図書館で、休みの日に予習と復習を米国の地理と習慣に重点を置き急場を凌いだ。
  日本赤十字社の学生奉仕団の縁で、このMark米陸軍曹長ご夫妻との交流は、彼が離日する日まで、幾度かクリスマスや感謝祭には交流を継続し、英語漬けを続けられた。愈々離日の日が決まり(昭和34年1959年)、代々木のワシントンハイツのお宅に寒い時期にお別れに伺い、奥様に岩波の英英辞典と和英辞典を友情の印に贈ったら、I never forget your generously.と彼に言われた。その後は文通を続けたが、一時音信が途絶えたこともあったが、心には何時もMarkが存在していた。
 私は、警視庁に入り(昭和34年1959年)やや当時としては英語に親しんでいたので、麻布か赤坂警察署への配属を希望していたが、成績が悪かったと見えて、当時西多摩郡の福生警察署へと配置になった。しかし ここは東洋一の米空軍の横田基地を管轄に持つところで、日本人よりも圧倒的に米国人の取扱いが多く、警視庁で通訳職員が常時24時間勤務の指定4署で、二年後にはオリンピック対策要員での警視庁転勤までを楽しく勤務出来て、転勤時は憲兵司令官Major Hiscockから「ジョニー黒」を記念に巡査部長に昇任したら開けなさいと頂戴し、未だに家宝として本棚にあります。
 交通事故現場では、基地の憲兵隊付の通訳はこのCoyが言うにはと米兵憲兵にいうのを耳にして、少なくともCopperか Officerと言えと迫ったことで、その後の対応と永い友情が続いたりもした。
  その後に(平成6年1994年)同地域のパトロールカーの隊長として赴任したときも、隊員の米兵の指導取り締まりに指向する姿勢が、基地司令官の上聞に達して、折から沖縄駐留米兵士の不祥事が続発した時期で、お陰で不祥事に発展せずと思わぬ感謝状を基地司令官の准将から翌年に頂戴したこともある。 

3 再会を期待しての模索

  初の渡米(平成3年1991年)は警察大学教授の職の時で、湾岸戦争直後の米国の治安実態調査研究の公用旅券による視察団長でした。NYやボストン、ワシントン、バッファロー、デンバー、シカゴを訪れ、帰国前夜にホテルの交換に久しく音信不通の米国元軍人でLeonard Marak米陸軍曹長へ可能であれば、電話をしたいと申し出ると早速調べてくれて、懐かしい50年振りの声を聞いて明日帰国なのでと再会を約して電話を切った。
 その後2年の出向を終えて理事職で警視庁に戻った夏に米国旅行を夏期休暇でサンフランシスコを訪れた際に彼はニッサンサニーで颯爽と現れ、再会を祝してMy first time English teacherと刻印して贈った時計を腕に寿司での再会を祝して食事をしながら、一時を楽しみ以降は継続的に文通も再会した。
  その後(平成13年2001年)を最後に再々度音信が途絶え、現在(平成16年2004年)米国国務省退役軍人局に調査継続依頼をしています。

終章
 是非 再々会を期したいものです。
 人それぞれには人生での接点で「忘れ得ぬ人」が存在し、探し続けている方々も多いと思います。Googleにも検索で登場する我が大学院のHPの電マの威力とご威光にも期待するところがあり、「継続こそは力なり」信じたいものです。
 そしてまた、米国流の退役軍人への配慮にも期待して、継続する所存です。
 









 上 昭和33年(1958)ワシントハイツスイミングプール
  Marak御夫妻(1978Bremerton,Wash)スミソニアン博物館勤務当時
     Markと再会(平成3年1991年 San Franchisco)
 下左 ご子息John Bruno Marak (18歳USNavy)
   ご子息Robert Marak(昭和33年1958年)ワシントンハイツ
    Sgt/Marak(昭和33年1958年) ワシントハイツスイミングプール