『日本人画家滞欧アルバム1922』 

   (7)飛躍の予感

 

                            文化情報専攻 3期生・修了  戸村 知子

   

 1922年巴里。黒田と同じように、ここを再び訪れている日本人画家がいた。正宗得三郎(1883−1962)である。彼が最初に巴里の地を踏んだのは1914年。第一次大戦勃発のため1916年に帰国した。当時、新帰朝者として目覚しい活躍を見せた正宗は、1921年から再びフランス絵画受容の旅にでた。黒田重太郎たち一行が巡礼紀行を始めた頃、すでに巴里のソンムラール街17番地の宿でドイツ帰りの小出楢重と画論を交わしていた。新しい出会いと過去の出会いが交差する街巴里。1923年の扉が開かれる頃、黒田がその地を離れる時期も間近となる。

 黒田重太郎にとって二度目の巴里。一度目の滞欧はちょうど第一次大戦中だったこともあり、美術館へ訪れても満足な作品鑑賞ができなかった悔しい思い出を残しています。しかし一方で、夏に訪れたブルターニュでは、当時戦争中であることを忘れてしまうほど、のどかな日々を過ごすこともできました。そのなかから一度目の滞欧作を代表する作品<ケルグロエの夏>や紀行文『憧憬の地』が生まれています。再び訪れた巴里の空の下で黒田はその頃を懐かしく思い出していたことでしょう。
 そしてまた、一度目の巴里滞在で実現することのなかった「師について学ぶ」ことが叶ったことは、その後の大きな糧となったのでした。アンドレ・ロートのもとで学び、その仲間と夏季講習会に参加した黒田のもとを、吹田草牧が訪問した時にはすでに78枚の油絵があったといいます。


 9月17日(日曜日)
  9時半起床。ノオトルダアムの勤行の音を久し振りできく。入江君のところへ行くと伏原さんが来て居る。三人で重さんの処へ行く。重さんは丁度在宿。78枚も油絵が出来ていたが、重さんが一生懸命に勉強して居る様子がよくわかった。よく纏まっては居なかったが、これからいゝものが生まれやうとするのが解るやうな作品であった。羨ましくなった。久し振りでいろいろと話して、皆でシャルチエエへ午餐をしに行く。・・・・4時宿へ帰って入江君のところで話をして居ると、そこへ重さんが来た。一緒に出てサルチエエで晩餐をする。それから重さんの所へ行く。間もなく伏原さんも来た。三人で重さんから伊太利亜旅行の順序や行程を教はって、筆記をする。12時までかゝってへなへなになってやっと筆記を終へた。しかしこのために大変見当がついて楽になった。それから少し話をして帰る。サン・ミッシェルのカフェでシオコラアを飲んで帰る。私もとうとう来月早々伏原さんや入江君と一緒にイタリヤへ行くことにした。一時半就寝。

 吹田草牧『滞欧日記』(京都国立近代美術館機関紙『視る』第319号、連載]Z「近代美術資料」)より

 吹田草牧がイタリアへ旅立ってしまったので、その間の黒田の巴里での様子は彼の日記から知ることはできず、年が明けて1923年2月27日の記述を待たなくてはなりません。その間に、巴里へまた一人の日本人画家が到着しています。石井伯亭です。1月6日にサン・ラザアル駅に到着した彼は、その足で正宗得三郎と坂本繁二郎を訪ねます。そして正宗得三郎の案内でレカミエエというホテルに宿を定め、ちょうど其処に滞在中の木下杢太郎と三人、カルチェ・ラタンの中華飯店へ出かけると、その店の常連である児島虎次郎に出遭います。今回の石井伯亭の渡仏の目的は、二科会創立十周年を記念してサロン・ドートンヌに日本部を設立するための交渉でした。
 石井伯亭は梅原龍三郎の紹介でサロンの陳列委員長のモーリス・アスランを1月13日に訪ね、日本の近代画を一室に展示する快諾を得ました。19日にはアスラン氏よりサロンの委員会から正式に日本部開設の連絡を受けます。そして早速、正宗得三郎、斉藤豊作、坂本繁二郎とサロンの会員である藤田嗣治を在巴里の委員として、東京を代表しての山下新太郎を加え、1923年秋の展示に向けた準備が開始されました。これは日本現代美術が巴里でまとまって紹介される機会として、1922年春にグラン・パレでのナショナル・デ・ボザールサロンに日本美術展設置に続くものです。この春の展示では帝展出品作を中心に新画と古美術を合わせて450点が展示されたようですが、今回の秋のサロンへは二科会員の作品を中心に60点余りの展示にするという厳選されたものが計画されました。これはサロンおよび二科の権威のためであったのです。黒田はこのサロンに<母子像>と<雪霽>を出品することになります。
 巴里へ到着して間もない石井伯亭の行動振りを見ても、当時の二科会の勢いを感じ取ることができます。一方、黒田も帰国を3月に控えて慌しい日々を送っていました。石井伯亭が黒田の部屋を訪れた1月14日は、ロンドン旅行から帰ってきて間もなく、また二度目のイタリア旅行へ出発する数日前でした。17日には出発前の晩餐を日本人倶楽部で石井伯亭、正宗得三郎、坂本繁二郎らとともに過ごしました。そして一ヶ月あまりのイタリア旅行から戻ると、久しぶりに吹田草牧が訪ねてきます。

 2月27日(火曜日)
  9時頃起きて、午前中は室内で製作。土田さんが来て、昨夜重さんと石崎、広田両氏が来て名刺をおいて行った、と云ふので、これから行かないかとの事だったが、私は絵がかきたいから、やめる。それから1時前から出る。・・・・それからメトロでアカデミーへ行く。テンペラでやって見たが、中々むづかしくって、うまく行かない。それでも4時まで一心に勉強した。帰途ブランシエへ行き、そして重さんの宿へ訪ねて見たが留守。サン・ミッシェルの本屋へ行ってみると、重さんと石崎さんとに出遭う。久潤を叙した。それから一緒に重さんの買物につき合ってサン・ジエルマン・デ・プレまで行き、あの人たちの宿、オテル・デュ・ミディへ行く。・・・・メトロでマイヨオまで行って、日本人倶楽部へ行く。牛肉の鋤焼たべた。それからまたメトロでひきかへす。重さんの部屋で久しぶりにやうかんをたべる。里見君が来る。・・・・そのあとへ国松氏が来る。いろいろとみなでイタリアの話をする。重さんの、ジッシエエルの絵を見て、つくづく感心した。・・・・

吹田草牧『滞欧日記』(京都国立近代美術館機関紙『視る』第384-385号、連載59・60「近代美術資料」)より

 3月2日(金曜日)
  9時過起床。朝餐後オテル・デュ・ミディへ行く。重さんの処へ行くと、今朝書留が来たので見ると、郵船からので、首尾よく北野丸の船室がとれたと云ふことであった。まあよかったとよろこぶ。石崎さんや広田さんの部屋を交々訪れる。・・・・三時頃から重さんの買物をつき合って、ギャルリイ・ラ・ファイエットへ行く。そこで毛糸や卓掛を買って、それからベルジャルディニエエルへ行って、重さんの洋服や、子供たちの洋服を買ふ。・・・・

 吹田草牧『滞欧日記』(京都国立近代美術館機関紙『視る』第385号、連載60「近代美術資料」)より

 黒田の巴里出発の日を数日後に控えた3月はじめ、吹田草牧の日記は慌しい日々が綴られています。黒田がみやげ物を買ふのに困っているのを見かねて、百貨店やおもちゃ屋などへの買い物を手伝うかたわら、病気になった石崎光瑤の看病も託され、生活のリズムがすっかりかわってしまって、疲れも出てきたようです。そんな草牧へ黒田はブルターニュ行きをすすめるのでした。
 そして3月5日の夜、草牧が訪れた黒田の部屋では、国松桂溪はじめ3人の画家を前にしてイタリアの講義が繰り広げられていていました。かつて草牧がしたように筆記する彼らの姿がありました。7日には、日本人倶楽部で送別会が開かれ、黒田は8日の夜の電車で巴里を離れたのでした。その後、草牧は4月中旬にブルターニュへ向います。4月1日付けの姉への手紙にも「ブルタアニュと云っても広いものですが、私はそのうちの巴里から西南の海岸の方へ行かうと思ひます。前に重さんが行って居た所です。林檎の樹が多いので、その花を見たいと思ふのです。」と書いています。一方、帰国の途についた黒田は船上で、おそらく日本で帰りを待つ家族の笑顔、そして開花間近の桜に思いを馳せていたのかもしれません。

 「巴里といふ所は、絵の勉強でもしようと思ふと、一向につまらない処だが、お金をどつさり持って、買い物でもしたり、ぜい沢していれば、それこそ何年居ってもあきないかもしれん」と言って(だからと言って巴里での思い出は深い)、滞欧数ヶ月で帰国してしまった小出楢重は、黒田と対照的な存在ではありますが、二科会員として、また大阪信濃橋洋画研究所の講師陣として、まさに好敵手となる人物でした。もう一人、同じく1922年に渡欧している鍋井克之も忘れてはなりません。ただ、黒田は鍋井とは巴里で出会うことなく帰国しているのです。鍋井とは信濃橋洋画研究所の設立準備の頃から親しくなり、それ以来晩年まで40年以上もの交流が続く間柄となるのでした。
 国画創作協会の画家三人との「欧州芸術巡礼紀行」で始まった黒田の二度目の渡欧は、一度目の滞欧経験とともに彼の画業の大きな転機となりました。帰国後は西欧画壇の新しい思潮や画家・作品の紹介者として日本洋画壇の欧化主義者の一人に数えられましたが、ロートもそう望んだように、黒田はいつまでも西欧画壇の作風に固執していたわけでありませんでした。帰国後数年を経て、ロートやビッシェール、セザンヌ風の画面を抜け出し、独自の画風を確立していくのでした。

 これまで取り上げてきた巴里での日本人画家達の交流は、ほんのアルバムの1ページ。いつの日かまた、アルバムを手にすることがあれば、そこには新たな風景が繰り広げられることだろう。その日の訪れを楽しみに、ひとまず「日本人画家滞欧アルバム1922」を閉じることにする。

黒田重太郎<ケルグロエの夏>1919年

(参考文献)
・『史料・画家正宗得三郎の生涯』村山鎮雄 1996年 美術の図書三好企画
・「吹田草牧のヨーロッパからの書簡」田中日佐夫 『美学美術史論集』第8第2部 1991年 成城大学大学院文学研究科 
・『美術と自然 滞欧手記』石井伯亭 1925年 中央美術社
・『大切な雰囲気』小出楢重・匠秀夫編 1975年 昭森社