探しものは何ですか?/見つけにくいものですか?/まだまだ探す気ですか?/それより僕と踊りませんか?/探すのをやめたとき/見つかることもよくある話で/踊りましょう夢の中へ夢の中へ/行ってみたいと思いませんか?(井上陽水「夢の中へ」から)
ニート・フリーターと呼ばれる若者たちが陥っているらしい「困難な状況」を、「刹那に生きる」、「つながりを失う」、「立ちすくむ」、「自信を失う」、「機会を待つ」という5つのキーワードにパターン化した研究がある(労働政策研究・研修機構「労働政策研究報告書No.4」、2004年)。5人の若者たちはそれぞれ、朝ちゃんと起きられる自分、他人と楽しげに話ししている自分、かっこ良く疾走している自分、ゆったりとして信じられる自分、意外な幸運、を探しているように見えます。この5人に共通して言えますが、君たちは、きっと何かしら「探しもの」があって、まだまだ探す気だ、ということらしい。
正直に白状すると、中高年ドップリの私にも、依然として「探しもの」がまだまだあります。その点では君たちと同じです。ただし、もし私が君たちと違うところがあるとすれば、「探しもの」が一体何なのかを言葉で語ることが出来るかどうかということと、何処に探しに行こうとしているのか、ということにおいてでしょう。
君たちの「探しもの」が一体何なのかを、自分の言葉で人に語ることが難しい人が多いようですね。じゃ、君たちの「探しもの」が一体何なのかを、もう一度じっくり考えてみないか? そして、それを君たちの言葉でどのように言うことができるのか、もう一度考えてみないか?おそらく、そこから出発し直さない限り、あの「困難な状況」から抜け出すことは出来ないのではないでしょうか。「探しもの」って、ひょっとして君たちがいま漠然と感じたり、思ったり、閃いたり、イメージしたりしている自分の中の「夢」の裡にしかないと思っていませんか? そうだとしたら、ちょっと視点を変えてみてはどうだろうか。つまり、「探しもの」はひょっとして自分の外の「夢」の裡にあるのではないか、という具合に。
私の場合を言えば、今にして思えば、「探しもの」は、‘日々刻々と仕事に関わって生きてゆく’ という「夢」の裡にある、と思います。つまり、汗と涙にまみれた日々刻々の仕事の体験という外の「夢」です。そこで喜び・怒り・哀しみ・愉しみなどの感情をせいいっぱい表出しながら‘踊り’続けると、私の「探しもの」が、実は「日々刻々と仕事に関わって生きてゆくことの私にとっての意味や価値の世界」にほかならないことに気づきました。私は、多様で豊かな意味や価値に溢れた新たな「夢」ワールドに、私の「探しもの」があると確信しています。
君たちも、腰掛け気分でなく、お試しでなく、こわごわでもなく、仕事にぶつかって日々刻々に体験しながら、そこから生まれる君たちの感じ・思い・閃めき・イメージに意識を集中させ、それを自分の言葉に置き換えてみないか。仕事といっても、有償から無償まで、職業から諸活動、家事、育児、介護、諸運動、仕事を探すという仕事まで、多様な実践的行動を指していて、非常に幅広い。どんな仕事でもよいのです。その仕事に‘踊ってみませんか’。自分の中の「夢」の裡だけに「探しもの」を探すのはひとまずやめて、仕事の体験という新たな「夢」の中に「探しもの」を探ってみては如何でしょうか。
私は、多様で豊かな意味や価値に溢れた新たな「夢」ワールドを「内的キャリア」と呼んでいます。それは、過去から現在を経て未来に続いていて、しかも自分だけでなく、家族や自分にとって大切な人たちとも関わる空間にまで広がっています。
では、私は何処に「探しもの」を探しに行くのでしょうか。其処は、‘日々刻々と仕事に関わって生きている’現場にある「湿潤な空気と、精妙な動きと、何の囚われも感じられない、純粋さに満ちた時空間」(拙稿「キャリア・カウンセラーのつぶやき(6)」参照)という私のこころが営む場です。その時空間が、「探しもの」を探す心の営みの源泉地なのです。「探しもの」は決して、私自身の極私的に育んできた「夢」の中にも、単なる懐かしい過去の回顧にもないだろうと思います。君たちにも仕事に身体で‘踊る’なかで、こころの「湿潤、精妙、自由で純粋な時空間」を営み、育み、そこに新たな「探しもの」を見つけて欲しいと願うばかりです。
ところで、君たちの親世代である日本の中高年が立派に仕事を‘踊る’なかから自分の「探しもの」を探し出しているのかといえば、実は必ずしもそうではない、という次のような実証的事実があります(2001.1笹沼修士論文) 。
「現在の日本の中高年ホワイトカラーにはキャリア志向性が不明確か無い者が多い」という仮説を、因子分析により検討したところ、2つの事実が発見されています。一つは、日本の中高年ホワイトカラーの少なくとも過半数に関しては、キャリア志向性(「探しもの」)の明確性を示す因子が見出されなかったという事実です。二つは、逆に見出されたものは、キャリア志向性についての「模索型の不明確さ」・「逃避的な漂流」・「組織への依存」という、3つのネガテイブなキャリア志向性様式(内的な在り方)(3因子の累積寄与率は58%)であったという事実です。日本の中高年だってこんな具合なのですから、君たちが焦って「探しもの」をする必要はないのではないか、と思います。あえて言えば、中高年も若者も、ほとんど同質な内的キャリアの未成熟という困難極まりない課題を抱えているのです。これを聞いて、少し安心しましたか?
さて、‘探す’のをやめてみたらどうかということについて、もう少し考えて見たいと思います。J.クルンボルツ・スタンフォード大学教授は、若者がキャリアの意思決定をしない、或いはできないこと、即ち、キャリア優柔不断(Career indecision)を大いに歓迎すると言いました。優柔不断は、オープンマインド(openminded)という別な言い方に換えるべきだと主張しています。そして、若者に対して、キャリアの意思決定をせず自由であるために、計画された偶発性(planned happenstance)を現実のものにする具体的な行動を、日常心がけることを奨励します。そのような行動は‘好奇心・継続性・楽観論・リスクテイク・柔軟さ’に溢れたものであって欲しい、と述べています(2005.6来日講演’Luck Is No Accident’より) 。
この考え方からすれば、ニート・フリーターと呼ばれる君たちが、何もキャリア上の意思決定をしないで、あるいはできないで、ひたすら探しものをしている状態そのものは、決して世間や親たちから一方的に批判されるべきことではないと言えるかもしれません。しかし、探しに行く場は、君たちが極私的に育んできた内側にある「夢」の中にではなく、現実世界での汗と涙に塗れた日々の行動であってほしい、ということに留意してもらいたいと思います。
決して反語としてではなく、もう一度君たちに呼び掛けたい。そもそも探しものは何ですか? いったん探すのをやめて、踊りませんか? 踊る夢の中へ行ってみたいと思いませんか? (了) |