連載・どうでもいいことばかり(第2回)

       クラス会

                       国際情報専攻 5期生・修了 寺井 融

   


  札幌で小学校のクラス会があった。担任のF先生の古希祝いもかねている。4年生から6年生の間、一緒のクラスだった(昭和32年4月から35年3月まで)。当日の出席者は18名。61名のクラスだったから、出席率は3分の1弱となる。
 母校は、中央区にある市立二条小学校。一部が商業地で、あとは住宅地であり、東京でいえば中野区みたいなところである。
「お前は、誰だ?」
「○○だよ。忘れたのか」
「いやぁ、老けたからな、判らなかった」
「よくいうよ。お前のほうこそジイさんだ」
 といった、ぶしつけな挨拶があちこちでかわされる。卒業して46年になるが、会えば昔の洟垂れ小僧どうしだ。
「Sは、キャチャーミットを持っていたな」
「そうそう。キャッチャー・マスクもな」
 Sというのは、東京からの転校生である。原っぱに、グローブとミットの二つ持ってあらわれたときは、本当に驚いた。われら地元組は、皮のグローブをやっと持っているかどうか。三角ベース(1塁、2塁、本塁だけ三角形でやる野球。少人数で遊べる)をやるときは、敵も味方もお互いグローブを貸し借りしていたのだ。母子家庭のTはグローブを持っていなかったが、いつも一緒に遊んでいた。
 わが家は、南4条西20丁目にあった。Mという雑貨屋があり、小僧としてUさんが働いていた。よく道路で、彼を中心にゴームボールによる三角ベースをしたものである。  私は、クラスの野球落ちこぼれ組(クラス代表チームに選ばれなかった者)を集めて野球チームを作った。名前も決めた。Uさんに対戦チームを紹介してもらい、グランドを借りて試合をした。15対0で、相手が「もうやりたくない」と言い出し、2回コールド負けとなった。
 当方は、2番セカンドか8番ライトだった。あまりの負け試合に、救援投手としてマウンドにも上がり、最後の2、3点を献上したのではなかったか。主将ではあったが、からきし下手だった。公式戦は、その1回だけ。監督になってもらったUさんに、チーム全員がラムネをごちそうなった。悔しいという気持すら起こらなかった。
 テレビ放送を初めてみたのは、そのMの店奥である。相撲が大人気のころで栃錦・若乃花戦も何度か観戦した。父が、本場所が終わると、丸井さん(今井丸井デパート本店のこと。何故か、さんづけで呼んでいた)のニュース映画専門館につれていってくれて、「相撲ハイライト」を観た。大人は30円だったと思う。子供はいくらだったのだろう?
 商店街狸小路に一時期、テレビを見せる小屋もあった。後年(1995年)、新疆ウイグル自治区の田舎町でビデオ映画館を見かけ、かつてのテレビ小屋を思い出した。
 アジア大会(昭和33年)は、床屋をやっていた同級生のT君のうちで見た。彼のところで、頭を刈ってもらった記憶はない。理髪の技術をもったオバさんがわが家にやってきて弟と二人、刈ってもらっていた。理容学校に行って、インターンの練習台となったりもしたこともある。いずれも安かったからである。
 テレビといえば、「名犬ラッシー」である。お隣りのSさん宅で見せてもらった。わが家に14インチのテレビ(もちろん白黒)が入ったときの感激は、いまでも忘れない。皇太子様(現天皇陛下)のご成婚パレードは、家で見ているので、昭和34年のはじめではなかったか。テレビの値段がどんどん下がり、6万円ぐらいになっていた。「2万円の頭金に、月2千円の月賦・20ヶ月払い」で買ったときく。父の月給が2万数千円のころだから、大変な買い物だった。
 家にテレビが来てから、生活がまるで変わった。偉人伝や歴史ものが大好きで、学校の図書館の本を次々と読みまくり、友達の家の本を借りて歩いたりしていた当方の読書量が、ガクッと落ちてしまった。
 それまで、たまに病気になるのが楽しみだった。貸し本屋からマンガ本を借りてもらえる。盛りそばかミカンの缶詰も食べられる。そうして寝ていると、不思議と治ったものだ。病気のときの愛読書は、子供用の『三国志』『水滸伝』『太平記』、それに『15少年漂流記』である。何度も読んだ。
 90年代の終わりごろか、ミャンマーのヤンゴンから夜行列車に乗った。車掌がたくさんの本をかかえてやってきた。アルバイトで貸し本屋をやっていたのである。ミャンマーやベトナムの田舎では、貸し本屋をよく見かけたものだが、最近はビデオレンタル店が目につく。子供のころにあった野外映画会も、お祭りで見た見世物小屋の世界も、それら国には息づいて残っていた。
 小学校時代、社会見学が大好きで、友人たちと警察署、消防署、市交通局など片っぱしに見学して歩いた。有志と「改生活クラブ」というクラブもつくり、ガリ版刷りの機関紙も出したりもした。改進党と4Hクラブから、小生が命名したもので、当時から政治好きのませた少年だったのだ。
 いつもつるんでいたS君は、今回の会には出席できなかった。亡くなったときいた。自殺者も何人かいた。横浜からきていたH君は「定年になったら、こっちに住むよ」という。「母親が一人で暮らししているから」だそうな。「奥さんは?」「たぶん来ないな」「単身赴任か」。仕事ではないのだから、「赴任」は正しくはない。でも、退職生活者にとって、もう一つの仕事のような気もする。
 先生に、パターゴルフのクラブをプレゼントした。「今度から使うよ」と喜んでくれた。記念写真を見ると、その先生より老けた顔が何人も写っていた。