オックスフォードの窓辺から(2)

爆笑!ここがヘンかも?外国人 (イギリス編)

 

文化情報専攻 6期生 外村佳代子

   

 日曜日のGYMは、結構穴場だ。キリスト教圏ではどの国でも同じだが、教会以外はどこへ行っても意外とすいている。キリスト教徒にとって日曜日のミサと家族でとるサンデーミールは重要なのだ。私の通うジムは自宅から車でも5分。スポーツジムに行くのならこのくらいの距離歩けばいいものを・・・と自分でも思う。月会費は日本円で約35,000円と少々お高めだが、私はこの設備が気に入っている。40を越すエアロビクスやヨガ、太極拳、チューブワークといったフロアーレッスン。テニス、スイミング、マーシャルアーツ、トライアスロンその他、とりあえず思いつくスポーツジムで行えそうなカリキュラムはすべてあるといってもいいだろう。そのどれに参加しても構わないのだ。もちろん、ジムに必要な機材の数とフロアーの広さはソンジョそこらの体育館の比ではない。テニスコートだけでもインドア、アウトドア合わせると30面以上ある。もちろん半分のコートは芝である。レストランで供されるメニューも豊富で、イギリスの平均的なレストランと比べるとはるかにリーズナブルで美味しい。エステティックサロンも完備。お約束のサウナやジャグジーも広くて綺麗だ。

 私はもともとこのような施設は好きではなかった。走りたいのなら道を走ればいいし、筋肉トレーニングにお金をかける必要は無いと思っていた。ランニングマシーンなんて、まるでハムスターみたいだ。そんな私がジムに行きだしたのは、出張時にスタッフたちがホテルのジムにこぞって行くのに付き合ってからである。学生時代から、スポーツをするたびに体の故障箇所を増やしてきた。筋肉が衰えたら、いろいろ問題が出てくるだろうと言われていただけに、出張時のホテルのジムは結構ありがたい存在である。私の持論であるが、西洋と日本では健康に対する認識とアプローチの方法が違うように思う。日本は食文化に対する意識が高く、健康管理といえば食事から見直すのであるのに対し、西洋は体を動かすこと、ジョギングやトレーニングといったアクティブな方面から考えるようである。長寿国日本人は健康を話題にすることが多い。居酒屋でも、日本酒片手に健康談義に花を咲かせる。

 日曜日だったかどうか思い出せないが、息子といっしょに来た時のことである。私は夏にむけ、試着もせずに買った水着に体を合わせるため(?)新たに組んでもらったメニューの確認の為に受付に立ち寄った。その受付の女性が
「ヘンマンが来ているわよ。」と教えてくれた。
「えっ=っ、ヘンマン?ヘンマンが来ているのお?」と私は舞い上がってしまった。
「カフェにいるからいっしょにお茶でも飲んできたら?」
 受付の迎え側がカフェの入り口になっている。私はトレーニングメニューの紙を乱暴に受け取り、カフェの中を覗いた。ちょうど息子がカウンターでフレッシュジュースをグラスに注いでいるところだった。
「やっぱりな。あんな大きな声を出すの他にはいない。」周囲を気にしながら他人の振りをしながら日本語で言った。私は、中を見回しヘンマンを探す。だが・・・、その空気を察した息子が日本語で続ける。
「ヘンマンて、知らないんだろう」・・・・どっかで聞いたこともある名前だ。
「だれ?」小声で聞いた。
「オレのスクールのコーチ」
「・・・・・・・・・・・・・・・あーーーっ、ヘンマン・テニススクール!  な〜んだ。テニスの先生かい」
  息子は何も言わずに手で、あっちへ行け!といった。奥のほうに人垣ができている。正式には女性の輪がある。その真ん中にその人はいた。「あっ、タオルふんじゃった人だ」先ほど階段を上る時、女性の取り巻き(?)とともに降りてきた男性が落としたタオルをふんでしまった。すれ違いざまの彼の涼しげな目元と対照に、周りの女性の冷たい視線を思い出すと、急にコーヒーが飲みたくなくなった。
 その後彼を見たのは、ウィンブルドン選手権のテレビ中継である。

  日本の場合はよくわからない。海外のジムに行くと別の楽しみがある。時間帯にもよるのだが、来る必要がないだろうと思われる、体に自信のある男女の目的は別である。誰と誰がそうなのか・・・を推測するのだ。結構いい時間つぶしになる。ランニングマシーンなどをしながら、正面の全面カガミの上部にすえつけられたビデオ画面を見るフリをしながら、鏡の中を注意深く見る。目的を持っている女性は、私のように化粧が流れ落ちるほどの汗はかかない。大体の当たりが付いたら、その女性の視線の先にある標的を見定める。その多くは、無駄なほどの筋肉を蓄えている。その隆々とした筋骨、途上国の井戸掘りにささげる気はないか?と聞きたくなる。 

  少々場所は変わるが、西ヨーロッパのとある国で見つけたスポーツジムは「ナチュラルを愛する人たちのための」と案内書に書かれていた。食品のオーガニックと同一レベルで考えてはいけない。この場合のナチュラルとは、より自然で原始的生活を愛す人たち、文明の象徴とでも言える衣類を身につけない人たちを指す。ナチュラリストの集るビーチで、彼らに遭遇して驚かれた日本人も多いことだろう。はじめてその光景を目にした小学校の低学年だった息子は、水着を海に流されたのかと本気で心配をしていたものだ。しかし慣れっこになってしまった今となっては、息子は彼らを「らぞく(裸族)」と呼んでいる。その「らぞく」のためのスポーツジムがあるのだ。何も身につけないのがルール。世界は広いと思う。

  話をもどすが、その日も目星をつけた「その女性と視線の先にある標的」の行動を何気なしに見ていた。女性も男性も40歳は超えているだろう。2人は時々微笑みをかわしながら、使用するトレーニングマシンの距離を縮めている。会話はない。私は60分ほどランニングマシーンで走りこんだところで、フロアーの隅に設けられた休憩所で、山盛りの冷えたオレンジと氷水でのどの渇きを癒やしていた。ほどなくして先ほどの女性が私の横のソファーに座り氷水を飲み始めた。彼女は来てまだ30分もたっていない。強い香水が鼻を突いた。彼女が私になにかを話し始めた直後、「標的」がやってきた。たったまま、手前にいる私ではなく彼女に時間を聞く。フロアーの4面に時計はあるだろうに。どうやら、サッカーの試合があるらしい。すでに始まったと「標的」は少し慌てて言うと、女性もすっかり忘れていた、今ならカフェのスクリーンで観れるだろうとふたりでフロアーを出て行った。
 彼女は私になにを言いたかったのだろう、と考えながら軽くクールダウンをして私もフロアーを後にした。ロッカー室への途中、カフェでスクリーンの前に座る二人が見えたが、シャワーを浴びてでてきた時にはすでに両人ともいなかった。

  数日後、ロッカー室で待ち合わせたGYM友人たちにその話をしたら、なにをそんなに驚いているのかと反対に驚かれてしまった。「そんなの普通じゃん」というのである。「えっ?みんなもそれなりの目的があるわけ?」と聞くと「体をコントロールするというのはそういう意味でしょう。」さらに別の友人が言う。「あなたみたいにダンベルや鉄アレー振り回している女性、他にはいないわよ。あなた、女シュワルツネガーって呼ばれてんのよ」といわれた。知らなかった。確かにこのところダンベルのプレートの枚数を増やしてはいる。ちょっとショックだった。「私、おんな扱いされてないわけ?」すると彼女たちが私をまじまじと見ながら言う。「大体ネエ、こんな下着ママだって履かないわよ」と言われてしまった。とはいえ、別段それほどババくさいわけではない!と思う。日本で購入した、それなりの年齢にふさわしいそれなりのはずである。たしかに、彼女たちのは、というと、日本で言うところの「勝負下着」である。

  数年に一度、イギリスでは『辞書にない言葉』を集めた本が刊行される(『The Meaning of Tingo』by Adam Jacot)。英語の辞書にはない外国の言葉の紹介である。たとえば、アラビア語の中には27種類のひげの形を形容することば、又27種類の眉毛に関する単語があるそうだ。フランスやドイツ、トルコ、インドネシアなどあらゆる、その国にしか存在しない状態、形容詞、動詞などを説明している。ちなみに最近わが国日本から掲載された単語には、karoshi (death from overwork)やmadogiwazoku(window-gazing office worker with too little to do) tuji-giri (the practice of trying out your new sword on a passer-by) bakku-shan (women who appear better from behind than front)。 私が知らなかった単語にage-otoriなるものがある。説明によると好転を期待してのヘアーカットが、切った後のほうがひどくなることだそうだ。数年前に出た『辞書にない言葉』には、sho-bu shitagi (panty) とあって友人たちへの説明に苦労したことがある。

  海外では、かなりのご年輩の方でも布面積が片手のヒラくらいしかない下着など普通である。彼女たちは私の服装にいろいろアドバイスをくれるのだが、彼女たちの言う「スペシャルな日」など考えにも及ばない。いっしょに選んでくれるというので丁重にお断りをした。あなたたちのように勝負しっぱなし。とは違いますからー。やはり、世界は広いと思う。