電子マガジン第16号より、この「僕が宝塚を愛でる理由(わけ)」と題する連載を始めた。この動機は開始にあたり第16号に述べたが“宝塚歌劇を「商品」ないしはビジネス・モデルとして分析してみようか、という気持ちが突然に起きた”ことにある。
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今回は「男たちの宝塚」といったことを取り上げることとした。一見、“男性ファンにとっての宝塚歌劇”を論じると思われるだろうが、そうではない。宝塚歌劇団の一員として人生の一部を過ごした男たちのことである。
周知のとおり、宝塚歌劇の舞台は一般に「タカラジェンヌ」と呼ばれる乙女たちによって演じられる。「清く、正しく、美しく」のモットーというか標語というか、彼女たち、あるいは宝塚歌劇そのものを端的に表現するこの言葉も広く一般に膾炙している。
そして、当然ながら一般には宝塚歌劇は大正3年の発足時から91年目に入った今年に至るまで、すべて女性で構成される団員たちで演じられて来たと思われている。
しかし、宝塚歌劇の歴史をひもとくと、1924年に完成し、火災による焼失の折りもすぐに再建された宝塚大劇場における公演についてはそれは正しいが、1923年に新歌劇場として建設され、大劇場の完成に合わせて中劇場と改称された宝塚中劇場における公演については、必ずしも正しくない。
なぜなら、戦後すぐの1947年12月に宝塚歌劇の公演として、この宝塚中劇場においては、男性が参加した公演が行われ、その後も数回超短期間ではあるが男性参加の公演が実施されているからである。
では、この宝塚中劇場における男性参加の公演とは一体なんなのか? それは終戦後に「宝塚歌劇団男子部」として採用された男子研究生の初舞台公演であった。この公演の上演期間はわずかに2日間であったが、その後もこの男性参加の公演は、延べ回数は少ないものの、1954年3月の解散まで、ほそぼそと続き、その間、彼らは宝塚映画製作の映画に散発的に出演した記録も残っている。
ところで、この「宝塚歌劇団男子部」というものは一体どういうものであり、どういう経緯で生まれ、そして消滅したのだろうか。
宝塚歌劇団男子部は1945年の終戦後に発足している。第一期生の人数は5名であった。もとより、この発足は小林一三の発案に基づくものであり、戦後の演劇復興を睨んで小林一三が宝塚歌劇団を女性だけの劇団から男女による普通の劇団への転換を視野に入れて発足させたものである。その後、第二期3名、第三期5名、第四期12名、計25名の男子研究生が「宝塚歌劇団男子部」に在籍した。
1945年採用の第一期生は2年間の研鑽を積んで前述のとおり、宝塚中劇場で、昭和22年12月に初舞台を踏んだ。しかし、結局は男子生徒の加入に対する在団生やファンからの猛反発を招来し、大劇場では一部の演目(例えば1951年の「虞美人草」公演)において、陰コーラスへの参加を得たのみで、宝塚大劇場の本公演に立つことがないまま1954年に解散している。
ちょっと横にそれるが、「宝塚新芸座」という、宝塚歌劇と同様に、小林一三が創立した演劇集団があった。 1950年に小林が関西漫才界の重鎮であった秋田實に、「漫才師による劇団の結成」をもちかけて発足した演劇集団である。この「宝塚新芸座」は、当時大人気だった漫才師をミスワカサ・島ひろし、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケらを中心とし、これに宝塚歌劇団の生徒も参加して公演を行うものであった。
この「宝塚新芸座」の本拠は宝塚中劇場であり、「宝塚歌劇団男子部」の解散の結果、男子生徒25名はちりぢりとなるものの、一部の生徒はこの「宝塚新芸座」に移動している。
元生徒参加後の「宝塚新芸座」は、その後、漫才師は漫才を中心にするものという信念をもっていた秋田實と、演劇を中心にすえた小林一三との対立の中、多少の紆余曲折はあるものの、二人は結局たもとを分かち、秋田は「上方演芸」というプロダクションを設立し、のちに、このプロダクションは「松竹芸能」と合併して今日における関西演劇界の二大芸能プロダクションの礎となった。
一方、演劇中心に特化した「宝塚新芸座」は、看板女優として、この秋文化勲章を受章した森光子を擁して活動を続けたが、最終的には、稀代の演劇プロデューサーにして演出・脚本家の菊田一夫の率いる東宝演劇部の傘下に入り、森光子を始めとして、主だった役者は東上し、流れ解散している。
本題に戻ると、結局、「宝塚歌劇団男子部」を加えた男女共同参画型演劇集団へのビジネス・モデルの変更ベンチャーは失敗に終わった訳だが、もし、この計画が一時的にせよ成功し、宝塚歌劇団が通常の形の劇団に転化することに成功していたら、現在は宝塚歌劇団はどうなっていただろうか?
はっきりしていることは、「ベルサイユのばら」を上演するのに適した劇団へと発展することはおそらくなく、宝塚歌劇団離れを起こした女性観客を吸収してSKD松竹歌劇団が存続することがありえたかも知れず、「宝塚新芸座」は吸収合併されて看板女優の森光子が馘首されたかも知れず、いずれにしても、現在のような宝塚歌劇団はもとより存在せず、その結果として、私がこの原稿の締切に追われることもなかったであろう、ということである。 以上
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