「沈黙の文化を訪ねて」

著者:青木 保、出版:中央公論社(中公文庫)、発行日:昭和57年2月10日

定価:320円

 国際情報専攻 4期生・修了 長井 壽満

     
       
   

 図書館でふと手にとって開いたページに次の文章が目に入った。
 『自然を統御することは、人間が生き残るためにはどうしても必要なことであった。……その方法には、
  大別すると二つある。一つは呪術であり、もう一つは科学である。……とくに近代―現代の科学は、
  自然を統御するというよりも破壊する方向で進んだといってよい。……自然の統御など一体できるのだろうか、
  自然の征服というテーマは、核の開発からエベレスト登山にいたるまでかつて人間が信じた「進歩の神話」の
  中心思想であったが、それは巨大な幻覚でなかったか。統御と破壊とは違うのである。といって、いまさら自然
  にかえることもできない文明社会に棲息する人々にとって、いま一つの自然制御の方法について瞬時思いを
  馳せることは決して無意味なことではなかろう。というよりも、やがて文明の終末に際して、われわれがすがり
  つくのはどうしても科学でなく呪術であるような気もするのである(92〜93頁)。』
 この文章が私の読む気をさそった。
 この本に書かれたエッセーは1969年から1975年に書かれたものが主である。私が大学で工学(科学)を勉強していた時代である。スペースシャトルが人間を宇宙空間に送り込み、コンピュータの実用化が始まった時代である。学生時代のコンピュータのイメージはパンチカード、計算機室受付、フォートラン・コボルである。今こんな言葉を覚えている若いコンピューター技術者は少ない。大学で私の研究室はfaxを研究していた。Faxが実用化まで一歩手前であった。となりの研究室ではプラズマの研究をしていた。今年にはプラズマテレビと液晶テレビの生産数はブラウン管テレビを抜くそうである。日本ではもうブラウン管テレビを製造していない。私の卒論は手書きであった。今の学生は30年前の時代を想像できないであろう。私も学生の時に、2006年の今を想像できなかった。
 何故過去がこんな簡単に忘れられるのか、この本に『現代のような激しい変化の時代、過去と現在の間のギャップがかってみられないほど大きく開いてしまった時代に生きるわれわれにとって歴史の感覚はもはや失われたものとなっている。日常生活における伝統的なものの喪失と新しいテクノロジーへの適応は、単に生きのびるという以外の理由もなしにとり行われて疑われなくなった。……現代人は歴史から離れていく一方なのだ(167頁) 』と淡々と述べている。言われてみると、納得する。現代人は過去を考える暇もなく、次々と新しい状況に対処しなくてならないのだ。忙しすぎるのだ。高名な歴史学者のE・H・カーは歴史はと問われて、次のように答えている。
『それは現代の光を過去にあて、過去の光で現代を見ることだ』
  現代人は光を過去にあてる時間もなく、資本とテクノロジーの言われるままに走る。
  将来を夢想するのも難しいが、過去を思い出すのも難しい。回想という行為が忘れ去られている。我々は将来を想像する時間を与えられる間もなく走りつづけ、過去を振り返る時間は切り捨てている。故に先後が見えない「閉塞感」という言葉が目につくのか。
  昨日まで戦後60年の節目の年であった。日本は戦後60年間を思索しないで、想像しないで、夢想しないで、走っていた。巨大メディアとインターネットによる俗流コミュニケーションの巨大な発達は共通な「常識世界」をつくりだしてしまった。これからの日本の主役はこの何も思索しない時代に育てられた連中である。年老いた連中は思索しないで走った者である。回想するには遅すぎる。
  高度成長の渦中を過ごした身として、この本が書かれた1970年代と今2005年と何が変わったのか?精神的には多様性が薄れ、単一思考の人種が増えていると思えてならない。状況はますます悪くなっている。近代文明は何処に辿り着くかわからない。あいかわらず世界のあちこちで戦火が火を噴いており、混乱が収束する兆しはない。
  心の平穏を得るには回想、循環するひと時が欲しい。人間は線系ではないのだ、複雑系である。この本が提起している内容は回想(循環)する材料として今でも説得力を持つ。次のような指摘『このような雨乞いの儀礼の呪術を信じ行う人々には、一つの点だけ共通した特徴が見られる。それは自然に対して極度に敏感であり、その異常や秩序の乱れを恐れ、何よりも自然の破壊を避けるという点である( 97頁) 』。
  昨今の自然災害、地震、ハリケーン、鳥インフルエンザの発生による大規模な被害、地球温暖化は自然破壊が起点となっている。もし、人がそこに居なければ、鶏舎での大量飼育・大量生産がなければ、もっと自然に敏感になっていれば、被害はこれほど大きくはならなかったであろう。自然破壊が収まる兆しは無い。
  筆者は1965年以来、タイを中心にインド、フィリピン、マーレシアを調査。その間約六ヶ月、自ら僧修行を体験するなど異文化理解をライフワークにしている文化人類学者である。単に文化の差をあげつらうのでなく、人間文化の本質を見つめながらユニークな執筆活動をしている。
  なんか、過去に忘れ物をしたなと感じている方にはお勧めの一冊です。