キャリア・カウンセラーのつぶやき(6)                                            

        エレニの旅またはキャリアの滴り

 

                             人間科学専攻 2期生・修了 笹沼 正典
                    
現在、シニアSOHOメタキャリア・ラボ代表
 

   

アレクシス「昨夜、夢で君と二人で河の始まりを探した。老人が案内してくれた。のぼるにつて河は細い流れに分かれた。雪をいただく山頂のあたりで、老人が青々としたひそやかな草原をさし示した。茂る草の葉から水がしたたって、柔らかな地に注いでいて、ここが河の始まりと老人が言った。君が手を伸ばして葉に触れ、水滴がしたたった。地に降る涙のように」

終章    床に膝をついたエレニ。這うようにヨルゴスの死体にじり寄っていく。バルコニーの先には満々と水をたたえた水面が広がる。

 

 20054月に日本公開されたテオ・アンゲロプロス監督の「エレニの旅」のラスト・シークエンスである。アレクシスはエレニの夫。ギリシャから単身アメリカに渡り、米兵として沖縄の慶良間諸島で戦死する。ヨルゴスは二人の息子。ギリシャの内戦で戦死した。ロシヤ革命が起こり、オデッサを脱出するギリシャ人難民の一人エレニの旅は、“君が手を伸ばして葉に触れ、水滴が涙のように滴り、柔らかな地に注いで始まる河の流れ”のように始まる。愛する子の骸が横たわり、その向こうに大きな水面がスクリーンいっぱいに広がる終章の光景は、エレニの旅の現在風景に他ならない。アンゲロプロスは、エレニの旅のクロノス的世界の現在をそのように見せながら、同時に、既にその時は死んでいた最愛の夫の慶良間からの手紙の声を同じシークエンスに重ねる手法によって、彼女の旅のカイロス的世界をも暗示する。

 河の始まりには、微かな指先がある。そっと触れる精妙な動きがある。葉がある。滴る雫がある。柔らかな地がある。そして、流れが生まれる。何という湿潤な空気と、精妙な動きと、何の囚われも感じられない、純粋さに満ちた時空間であろうか!エレニは、水の流れの感触が溢れた旅をそのような時空間から始め、苦節に満ちた旅を生きる。私は、人が数十年もの間仕事に関わりながら生きていく時空間をキャリアという言葉で表現することができる、と既に述べてきたが、働く人が生きるキャリアは、エレニの生きた旅のように、その人の生きていくことそのもののメタファーでなる、と言える。

 

 日々刻々に仕事をする人の内側を凝視してみると、そこに‘湿潤な空気と精妙な動きと囚われのない純粋さに満ちた時空間’が広がっているではないか。その時空間で、仕事をしているときの意識の触手が微かなに動く。その動きは、歓びに溢れているようにも、苦しげなようにも見えるかもしれない。何かを探り、焦点を当てようとして意識の手が触れるのは、仕事を体験しつつある意識の襞。すると、意識の襞から感情の雫が滴る。雫は、感じ、思い、閃き、イメージしたものたち(フェルト・センス)だ。フェルト・センスは、仕事をする人が‘湿潤な空気と精妙な動きと自由な純粋さに満ちた時空間’を自身の内側に確保しえたときにのみ生まれ出る。滴る雫はやがて柔らかな意識の底に落ち、一つの流れになる。流れとは暗黙の意味と知の世界。フェルト・センスには、暗黙裡に意味と知が含まれていることに気づくこと、さらには、暗黙の意味と知を言語化する前に風化させないこと。これらが、仕事をする人の内的意識の営みにおいて、日常的な重たい命題になるであろう。

 

 もし、仕事する日常において自ら怠惰、放縦、思考停止、感情制止などに流され、あるいは他者から疎外、無視、抑圧、暴力などが働くならば、働く人の意識内部のあの純粋な時空間は凍結し、意識の触手は動かず、フェルト・センスの雫は滴らず、暗黙の世界への気づきはついに生まれないであろう。こうした事態を、私は、仕事体験の風化、仕事体験を言語化することができないことによるキャリアの無名性と指摘したことがある。

 では、仕事の日常における内的意識の営みを、働く人自らはどのようにファシリテートすることができるのであろうか。

 

 仕事をすることの体験の過程は、「常に今この瞬間に生起」する「直接的なレファラント」であるから、人は意図してその過程に問い合わせ、マージナルな何ものかを探り、ついにはそれが何ものかを言葉に置き換えることができる(E..Gendlin1961)。私は、ジェンドリンの主張に依拠して、仕事の現象的な場において感じられた有機的な体験過程の内容を直接問い合わせる意図的な営みを、「仕事をすることの解きほぐし」と命名している。具体的にそれは、例えば、仕事の現場で人があの純粋で囚われのない時空間を確保し、そこで自らの意識の触手を次のように動かして自らの意識の襞に触れようと努める営みである。

 

1.私は現在どんな仕事に取組んでいる?(do

2.私はその仕事をしていると、何かはっきりしないモヤモヤしたものを感じている。(feel)

3.私は今感じている‘何かはっきりしないモヤモヤしたもの’が何なのかに意識を当ててみる。(focus)

 すると次第に、‘何かヤモヤしたもの’が、その仕事をどう思っているのか、どう感じているのかについての私の感じ方としてはっきりしてくる。例えば、今の仕事が“好きか・嫌いか、やりたいか・やりたくないか、ワクワクするか・バカバカしいか、楽しいか・辛いか、もう耐えられないか・まだ耐えられるか、自分らしくやれそうか・自分らしさは生かせそうにないか“などを感じる。(felt senseへの気づき)

5.私は、私が今感じていることが、自分にどのようなことを教えてくれているのか、どのような意味を語っているのか、あるいは、私が今感じていることの中にどのような意味や価値などが含まれているのか、に意識を向ける。(shift sense

6.すると私は、私が感じていることの中に、いまだ言葉にはならないけれども、私が今の仕事をしていることについての、自分にとっての様々な意味、価値、信念、その他の受止め方や、あるいは、仕事するための知識、スキル、ノウハウ、コツ、勘所などが含まれていることに気づく。具体的にそれらは、「仕事の重要性、仕事の自律性、仕事の完結性、仕事に求められるスキル多様性、仕事自体からのフィードバック」(平野光俊、1994)についての意味や価値などである。(tacitな意味と知への気づき)

7.暗黙の意味と知には、では、私は仕事でどうありたいか、どういう仕事をしたいのか、そして、では私は具体的にどうしたいのかといった未来志向的な問いと答えも含まれる場合もあるかもしれない。(Vision)

8.私は、今感じている暗黙の意味と暗黙知を自分の言葉でどのように言うか、を考える。(パロール化)

9.私は、私が感じていて自分の言葉で言えた意味と知を、今度は時代や世間や組織固有に流通する言語に置き換える努力を行う。(言語化)

10.私は、この言語化が出来たことによって、新しい意味と知を生み出すことができた。(意味と知の創始・開発)

 

 仕事に関わって生きていく日常的な体験過程の内容は、一般化することが可能であるが、同時に属人的であるから、限りなく多様な体験内容でありうる。上記は、その一例である一般的な職務特性認知を体験内容とする意識の営みである。

 

 ところで、意識の触手が触れて滴った雫は、暗黙の世界の無名性を克服して、言語化された意味と知を創始するが、「人が仕事に関わって生きていく自分にとっての意味を追求・蓄積する過程」を内的キャリアと定義する筆者の立場からすれば、‘湿潤な空気と、精妙な動きと、何の囚われも感じられない、純粋さに満ちた時空間’という場こそが、働く人の内的キャリアの源流の地である、ということになる。そして、その時空間で、意識の触手からこぼれるフェルト・センスの雫は、内的キャリアの滴りであると言える。

 

 キャリアは、かくして河の流れのようであるかもしれない。河の流れが蛇行、分岐、合流、堰止め、落下、海への消失などするのに似て、キャリアもまたその流れの途上で偶発的または計画的なトランジション(転機)に遭遇することは避けて通れない。だからといって、キャリアにとって死活に関わる重要な課題は、トランジションやデザインの課題ではありえないであろう。それらよりも寧ろ、働く人の内的キャリアの源流の地である、あの‘湿潤で、精妙な、何の囚われもない、純粋な時空間’を組織と経営がどのように確保し、支えることができるかということが、重要な課題になると考えるべきではないだろうか。私は、意識の雫の流れから始まる内的キャリアの創始のメカニズムを内包しない経営・人事の考え方やキャリア論のあり方には、何がしかの不全感を感じざるを得ない。  (了)