『英語能ハムレット』 軽井沢リハーサル公演について

 

           後期博士課程 文化情報分野 石田 雅章

   

はじめに

 演劇は時間の芸術であり、一回性の芸術であると言われる。活字として戯曲を味わったり、舞台作品のビデオを鑑賞するのと、実際に劇場へ出かけて、パフォーマーと観客がライブ感を共有するのとは、全く異なる体験である。

 広く舞台芸術というものを見ると、地理的、歴史的に、その表れ方は様々であるが、舞台上で充足感を味わうのが演劇人共通の感覚なら、舞台作品を見て感銘を受け、貴重な時間を共有したという感覚を持つのは、優れた演劇作品に触れた世界中の全ての観客が抱く思いである。

シェイクスピア演劇と能楽、人類史の中で決して看過することのできない、この二つの舞台芸術の融合を今夏、軽井沢で体験することができた。

 

英語能ハムレット

 個人的には、活字として上っ面の知識があっただけで、能は全く未体験であり、全てが新鮮であった。

今回地謡に加わることとなったが、事前に二度ほど、ほんの少し手ほどきを受けただけで、その時点では自分が本番の舞台に上がるということは特に考えていなかった。

86日の夜行バス(大阪発軽井沢行きが取れなかった為、長野行き)で大阪を出発し、7日早朝長野から在来線に乗り軽井沢へ、夜行バスの車内で深夜に目覚めてしまい、その後寝付けず睡眠不足で日大研修所着という行程になった。

しかし、疲労と緊張の中、実際に、紋付袴の着付け、入退場の所作から扇の扱い等、統一されたシステムの中に身をおくのは心地よいものであった。

到着後、開演前に二度の通し稽古を行い、午後3時開演となった。

夢幻能の形式を持ち、単に戯曲『ハムレット』の劇化に留まらず、悲劇として完結する『ハムレット』の物語を更に未来に推し進める発想の自由を舞台上で実現したものであり、謡いとシェイクスピア英語がじつに豊かに調和するものであると初体験にして深く感じるところであった。

私は、二十世紀末、特筆すべき二つの『ハムレット』が上演されたと考えている。ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』とロバート・ウィルソンの『モノローグ・ハムレット』である。この二作品ともビデオでしか見ることができなかったのは極めて残念に感じている。

この二作品に言及することはここでは本意ではないので、措くとして、上記のバージョンも含めて、『ハムレット』は、言わずと知れた悲劇である。

その『ハムレット』の悲劇を悲劇で終わらせない作品化に挑むのは勇気のいることである。

 下手をすると力技に堕する危険性を孕む、しかし魅力的な発想を、優美に実現したものこそ、能のシステムだったのではないかと考えている。

そして、閉じた頑ななシステムではないからこそ、能は、柔軟に、新たな領域を切り開いていくのではないだろうか。

 無際限の自由は、無秩序と同義になりかねないが、安定し、しかも柔軟なシステムは、真の自由には不可欠ではないだろうか。

このリハーサル公演に接し、統一された柔軟なシステムが、他者に何かを伝える時に強い力を持つのではないかという思いがした。

それは丁度、どのような言語も確固とした一定のシステム(文法)を持ち、そのことによって初めて他者への情報伝達が可能になるのと同様である。文法なき音声は言語ではなく、単なる雑音である。

言語が他者との距離を越えて伝わるように、能も、そしてシェイクスピア演劇も、確固として、尚且つ柔軟であるからこそ、時空を越えて21世紀の我々に語りかけてくるのだとは言えないだろうか。

 

さいごに

 結局、素人の雑感になってしまったようで、まだまだ、シェイクピアや能楽を語るボキャブラリーを私が有していないことを痛感した。

その時その場にいなければ、その作品を本当の意味で追体験することは不可能である。私が貧しい言葉を弄していくら語っても、何も伝わりはしないように感じた。

このリハーサル公演を踏まえ、『英語能ハムレット』は、本年11月、熱海MOA美術館にて上演が予定されている。

願わくば、多くの人に実際に熱海の地へ足を運んでいただけたらと考える次第である。

 

上演データ 

2005年8月20日 午後3時〜

英語能ハムレット リハーサル公演(入場無料)

 於 日本大学軽井沢研修所講堂

原作 W・シェイクスピア

作・演出 上田邦義

出演 日本大学大学院上田ゼミ有志

   国際融合文化学会会員