奈良・般若寺周辺
文化情報専攻 7期生 岡本 由実子
今年4月に、3年間暮らした京都から奈良に引っ越しました。結婚して8年で4度目の引越しです。引越し作業には慣れてきましたが、やはり新しい土地というのは、緊張します。特に今回は、新居の下見もせず、ぶっつけ本番のような引越しでしたので、周囲がどんな環境なのかもわからず、不安でした。 京都と奈良を繋ぐ道はいろいろありますが、私たちは「般若寺越」と呼ばれる峠を通って奈良入りしました。この道は、大和盆地の北辺に横たわる奈良山の東端の道で、奈良山の西端を走る「歌姫越」と共に、奈良時代からあるルートです。私たちの新居は般若寺のそばにあり、般若寺越が便利でしたので、この道を選びました。 峠を越えて、坂道を下っていくと、突然目の前の景色が開けて、東大寺が見えるので驚きました。東大寺の大仏様は南面しておられるので、ちょうど後ろから見る格好です。あっという間に、建物の影に隠れてしまうのですが、突然東大寺が見えたことで、驚いたというだけでなく、なにやらほっとしました。大仏様がいるから大丈夫、とばかりに、新しい土地への不安がなくなってしまったのです。この安心感、安堵感はいったい何なのでしょう。
さて、私が住んでいる般若寺周辺のことを、ご案内しましょう。 まず、先述の「般若寺越」という峠の名になった、般若寺があります。聖徳太子の草創といわれていますが、寺伝によると、舒明天皇元年に高句麗の僧慧灌の創建といわれます。聖武天皇が大般若経を十三重石塔基部に納めて建立したので、般若寺の名があると伝えられています。コスモスの美しい寺として有名で、春や秋の花の季節には、多くの見学者でにぎわうそうです。 般若寺の向かいには、牧場があります。明治17年創業の、奈良で一番古い牧場だそうで、明治時代の牛舎が残っています。この辺りは、今は住宅街となっていますが、当時は街外れののどかなところだったのかもしれません。35頭の牛と2頭のミニホースがいます。新鮮な牛乳やおいしいソフトクリームの販売もされています。 般若寺から北に行くと、鹿せんべいを作っている商店があります。鹿せんべいは、奈良公園の鹿のために作られる、全国的にも珍しい餌のせんべいです。奈良といえば鹿、鹿といえば鹿せんべい。奈良に来たことのある人なら、一度は鹿せんべいを買って、鹿に群がられた記憶があるのではないでしょうか。こんな身近なところで作られているとは・・・本当に驚きました。 さらに北に進むと、奈良豆比古神社があります。私は最初「ならまめひこじんじゃ」だと思っていましたが、「ならづひこじんじゃ」と読む、延喜式内社です。平城津彦神(奈良豆比古神)の他、万葉歌人としても有名な志貴皇子と、志貴皇子の子・春日王が祀られています。この神社では、毎年10月8日に、無形文化財『翁舞(おきなまい)』が奉納されます。これは、春日王の息子・浄人王(きよひとおう)が、春日王の病の平癒を祈願して散楽(申楽)を舞い、病気を治したという伝承に由来しています。 春日王の病は、ハンセン病だったといいます。この病にかかると、例え皇家の身であっても、都から離れた、片隅ともいえるこの地域で、隠れ暮らさなければなりませんでした。 般若寺から南に坂道を少し下がったところに、北山十八間戸があります。その名の通り、18の部屋が棟続きに並ぶこの建物は、鎌倉時代の僧忍性が建てた、ハンセン病患者の救済施設です。光明皇后の命により建てられたとも言われています。もともとは般若寺の北東にあったそうですが、1567年(永禄10年)に消失し、江戸時代・寛文年間に現在地に再建されました。 当時、ハンセン病は不治の業病とされ、世間から疎外されました。白壁と板戸で閉ざされた二畳ばかりのこの一室で、彼らは何を思い、朽ちていく体を見つめていたのでしょうか。このあたりは、眼下に東大寺が良く見えます。当時は、興福寺の塔も見えたかもしれません。その風景が、一時なりとも彼らの苦しみを鎮めたことを願います。この建物を見るたびに、引越しの日に東大寺を見て感じた不思議なほどの安心感を、思い出します。
般若寺周辺のこの町は、歴史の影の部分を残しているといえるのかもしれません。春日王の病の平癒を祈って、散楽(申楽)を舞ったとき、浄人王の胸にはどのような思いが去来したのでしょうか。北山十八間戸に収容されたハンセン病患者は、どんな思いで東大寺を眺めたのでしょうか。 もし、機会があったら、奈良豆比古神社、般若寺、北山十八間戸を結ぶ街道を歩いてみて下さい。今まで知らなかった奈良の歴史に出会えると思います。
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