≪六花の窓から見た中国≫ 
第4回
     − 趙紫陽の死と胡温体制(下)−

 

                                    国際情報専攻 4期生 諏訪 一幸
 

   

  小泉総理が敗戦の日或いはその前後に靖国参拝をしなかったという意味で、中国側(及び一部日本側関係者)はとりあえず胸をなでおろしていることと思います。ただし、それによっても、また、「戦後60年総理談話」の発表によっても、日中の政治関係が好転し始めたわけではありません。今後の展開は、来月に予定される総選挙の結果を受けての仕切りなおし、ということなのだと思います。

 

 前回の「六花」では、趙紫陽・元総書記の死に対する中国共産党の対応、そして、今も生きる趙時代の遺産について述べるつもりでした。ところが、4月になって中国各地で「反日」デモが発生したため、予定を変更して、デモをめぐる日中関係について記しました。そこで今回、既に旧聞に属する話題となってしまった観が無きにしも非ずですが、「趙紫陽の死と現在」について考えてみたいと思います。

 

 趙紫陽の死(本年1月17日)と葬儀(同29日)を伝える二本の国営新華社電、これらはいずれも短いものでしたが、配信のタイミング及び内容ともに、なかなか興味深いものでした。それは、「深刻な過ちを犯した」(つまり、学生を支持したことによって党を分裂の瀬戸際まで追いやった)という、従来からの公式評価そのものに変化はないのですが、それ以外の部分に現指導部の苦労の跡がうかがえるからです。

 まず、失脚はしたものの党籍は残っていたので、趙紫陽を「同志」と呼ぶとともに、「改革開放前期、党と人民の事業のために有益な貢献を行った」ことを認めています。ここでは「有益な貢献」が何を指すのか明らかにされていませんが、その点は後ほど私なりの解釈を紹介したいと思います。次に、葬儀には党内序列第4位の賈慶林らの要人が出席しましたが、彼らは「党中央の指導的立場にある同志」を代表しての出席であると報じられました。つまり、「深刻な過ちを犯した」との評価が下されている以上、党全体を代表して出席することはできない。ただし、「有益な貢献を行った」ので、党の最高指導部の判断で、彼ら個人を代表して参加したという論理的流れが浮かび上がります。これは、ひょっとすると、来るべき「Xデー」(趙紫陽復権)を見越しての保身作戦なのかも知れません。最後に、死去の事実を抹殺することなく、素早く発表したことが指摘できます。

 以上は、「6・4」の再評価を求める内外の声(主として国外からの声)を意識した結果の、極めて誠実なガス抜き措置(この表現はアンビバレントなものです)だと考えられます。いずれにせよ、実態はともかく「親民」路線のキャッチフレーズを掲げる、気配りの胡(錦涛)温(家宝)体制の面目躍如、とでも言うべき判断だったのです。

 

 趙紫陽の死に対する当局の対応は、このように極めて慎重なものでした。このことは、趙紫陽及びその失脚原因となった「6・4」天安門事件が、共産党にとっていまだタブーと認識されているからに他なりません。私は、趙紫陽に対する客観的かつ公正な評価は、同事件に冠される「政治風波」という公式表現が改められない限り、ありえないと考えています。では、その可能性はあるのでしょうか。

 江沢民は趙紫陽の後任として、13年余り(1989年6月〜2002年11月)にわたり、総書記のポストを務め上げました。彼は事件当時上海市のトップであり、従って、北京の事件には直接関与していなかったため、その在任期間中、趙の名誉回復への期待が語られることも一再ならずありました。しかし、弾圧の結果生まれた政権である以上、その評価を改めることは自らの正統性根拠の否定に他ならないこと、政権中枢には李鵬(前全人代委員長、事件当時総理)はじめ弾圧に手を染めた人物が少なくなかったことにより、そのようなことが起こるのはまずありえないと、我々研究者は考えてきました。そして実際、何も起こりませんでした。

 では、今後の可能性はどうでしょうか。また、可能性あるとしたら、どのような状況下で起こるのでしょうか。

 当面ありえない、というのが私の判断です。なぜなら、かつて自らの指導者だったという意味で当事者である中国の人々(主に、都市部の知識人)にとって、そのような「必要性」があるとはとても考えられないからです。それは、経済成長という実利と大国化という精神的満足感を手に入れるに従い、彼らの脳裏に留められていた弾圧の記憶がかなりの程度風化してしまったことと関係しています。このような流れの中で、それでも、仮に再評価が起こるとしたら、それは、共産党の一党体制はあくまでも維持するとの前提で、国家建設をより順調に進めるためにはそうしたほうが好ましいと指導部が判断した時以外ありえないと考えられます(勿論、社会主義中国が崩壊すれば再評価されることになるでしょうが、「崩壊論」は現実を無視した願望に過ぎないと考えます)。これが実現すれば、共産党に対する人々の支持と中国に対する国際社会の評価は確実に高まるでしょう。ただし、そのためには、改革開放史の書き換え、とりわけ、弾圧の決定を下した中心人物である故ケ小平ら革命第二世代に対する再評価というやっかいな問題を処理する必要があります。所得格差の拡大や汚職の深刻化、そして、これらに起因する社会不安など、緊急に処理を要する案件は山積みの状態です。天安門事件の再評価などは、指導部にとって所詮「書生論」にしか過ぎません。「臭いものに蓋」という方針は今後とも維持され、また、当面有効に機能することでしょう。

 

 次に、趙紫陽が行ったとされる「改革開放前期の有益な貢献」について考えてみたいと思います。

 趙紫陽がそのような貢献をなしえた時期は、総理に就任した1980年から、「政治風波」を招いた責任をとる形で総書記ポストを離れた89年までの約9年間ですが、中国共産党第13回全国代表大会(第13回党大会。87年秋開催)前後の時期が彼の絶頂期にあたります。そして、同大会で提起された「社会主義初級段階論」こそ、総書記として同大会を取り仕切った趙紫陽の「有益な貢献」に該当するのです。と言うのも、市場経済化(当時の表現を借りれば、「国家が市場を調節し、市場が企業を導く」というシステム)推進の理論的根拠を、初めて明確な概念をもって提供したのが、この社会主義初級段階論に他ならないからです。つまり、当時の中国が社会主義段階にあることは間違いないが、同時に、それは初級段階にあるので、(従来は資本主義的形態として批判されてきた)私有企業や株式配当などは当面合法化されるというのが、この考え方のベースにあります。趙の失脚によって、初級段階論への言及は回避されるようになりましたが、後期江沢民時代の幕開けを告げる97年の第15回党大会で遂に復権を遂げ、所有制の多様化や株式会社化などの進展に改めて理論的根拠を与えることとなったのです。

 なお、市場経済化の関連で言うと、WTOへの加盟手続き(より正確には、GATTへの復帰手続き)が行われたのが彼が総理を務めていた86年7月(加盟実現は2001年12月)だったという事実は、銘記しておいてよいでしょう。

 さて、党サイドは「有益な貢献」だとは決して認めていませんが、長期的視野に立ったとき、そのような評価が下される可能性のある業績として、彼が進めようとした政治体制改革(国家に対する共産党の指導体制をめぐる改革)があります。第13回党大会において行った報告の中で、趙紫陽は、国家に対する党の指導を「政治指導と重要幹部の推薦」という2点に絞り、中央・地方政府内に設けられた党の指導組織(党グループ)を段階的に廃止するなどの方針を示しました。彼によると、そこで示された方針はあくまでも共産党一党体制の強化を前提としたものですが、このような解釈や方向性も、失脚によって、社会主義初級段階論同様、否定されました。ただ、同論と異なるのは、政治体制改革案が未だ復権を果たしていない点です。この復権は現時点では不可能だと思いますが、共産党と国家・社会の関係が問われ、「経済改革に比べて、政治改革には進展がない」と中国の人々が不満を述べる際、彼らの主張のどこかに、趙紫陽が世に問うた政治改革モデルの影響が、多かれ少なかれあるように私には感じられるのです。

 

 「6・4」天安門事件以降の16年間、中国は、「趙紫陽なき趙紫陽路線」に沿った国づくりを行ってきたと言えます。経済建設面では社会主義初級段階論を金科玉条とし、そして、政治改革面では第13回党大会プランの影をひきずりつつ。ただ、多くの共産党員を含む絶対的多数の一般大衆にとって、趙紫陽は既に忘れ去られた存在となっているため、そのような認識が人々の日常生活において共有されることはほとんどありません。

 中国の人々が何のためらいもなく趙紫陽を語れるようになった時こそ、中国という国が政治的な大きな曲がり角に来た時なのだと思います。その時には民主化が重要な政策課題となっているかも知れません。それは10年後なのか、それとも20年後なのか。様々な展望が可能ですが、これまで述べてきたとおり、私は余り楽観的ではありません。中国共産党は趙紫陽問題に手をつけることなく、市場経済化や国際社会からの改革圧力を押しのけて、一党体制を維持しようとするでしょうし、大衆もそれを大筋において受け入れ続けるだろうと考えているからです。

                              (2005年8月25日)