『故園と井真成』
文化情報専攻 6期生 山本 勝久
夏目漱石が最晩年において、小説『明暗』の執筆を午前中にすませ、午後の日課として漢詩を作ったのは有名な話である。若くして英文学を学び、そちらの道では頂点に達したと評価されている漱石だが、本人は西洋文学にしっくりこないものを感じていたらしい。たとえていえば、生粋の江戸っ子で着流しが肌に合うのにしかたなく洋服を着て歩かなければならないといったところか。漱石が芥川龍之介らに送った手紙に「午後に七律を一首位ずつ作ります。自分ではなかなか面白い。そうして随分得意です」とある。嬉しそうな心持ちが伝わってくる。大正5年(1911年)8月18日の日付をもつ漱石の漢詩は「行きて天涯に至って白頭なり易し 故園 何処か 帰休を得ん」とはじまる。「天涯」は世界の果て。吉川幸次郎氏は「西欧的なものへの遍歴を含意するかもしれない」(『漱石詩注』岩波書店)とする。「故園」は漢詩によく用いられ、ふつうは故郷の意だが、ここでは西洋に対する東洋かもしれない。いずれにせよ、帰るべきところを求めてさすらう漱石の自画像を見るようである。 2004年10月、中国の西安における「井真成墓誌」発見の報道は話題をよんだ。墓誌の冒頭「公、姓は井、字は真成、國は日本と号す」とあり、墓主は「井真成」とよばれる日本人であると判明したからである。鈴木靖民氏の考証によると、「井真成」とは今の大阪府藤井寺市あたりを本拠地とする井上氏一族の者の唐名であり、第九次遣唐使にともなわれて入唐した留学生という。墓誌には734年長安において36歳で没とある。同時に入唐した吉備真備、阿部仲麻呂らが歴史に名を残したのとことなり、「井上真成」は日中両国の史料にみられず、もしたまたま建設現場から墓誌が発掘されなければ、文字どおり歴史に「埋もれていた」はずである。墓誌の末尾には「別れることはすなわち天の常 この遠方なるを哀しむ 形は既に異土に埋もれ 魂は故郷に帰らんことをこいねがう」(王建新氏の読みによる)。唐土に没した井真成はどのような「故園」のこころを抱いていたのであろうか。
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