キャリア・カウンセラーのつぶやき(5)                                            

        個人と組織の共有ゾーンを仮説する

 

                             人間科学専攻 2期生・修了 笹沼 正典
                    
現在、シニアSOHOメタキャリア・ラボ代表

   

従業員と会社の関係を本質的な矛盾・対立関係としてだけで捉えるのではなく、本質的な矛盾・対立関係という側面を承認しながらも、寧ろ、矛盾・対立関係を超えて「個人と組織の共生」の関係を追求するという課題が叫ばれ始めてからすでに久しい。労働者側やキャリア開発支援の専門家側からだけでなく、先見的な経営者側からも、今後の経営課題として「個人と組織の共生」への志向が語られるようになった情況を見る限り、この考え方が労使間で共有可能であるように見えます。しかしながら、わが国の企業社会の実態に少しでも踏み込んでみれば、単に中小・零細企業だけでなく、中堅・大企業においてすらも「個人と組織の共生」の追求はいまだ単なるスローガンか一つのビジョンに留まっていると言わざるを得ません。今日、組織に帰属する個人は、未来における共生を願いながらも、依然として組織に対して隷属的、依存的であり、過剰適応を止めてはいないことは、うつ病発症や中高年自殺の急増を持ち出すまでもなく、明らかでしょう。加えて、そうした個人は、そうした自らの姿に薄々気づいていながらも悲劇的な仕事体験を言語化できずに風化させてしまっていて、抵抗や怒りの感情を表明することもできないでいる現実が存続しています。私は、現代のこのような個人の本質を、敢えて「無口な苦悩者」と呼びたいと思います。では、このような企業社会の現実のなかで、どのようにしたら「個人と組織の共生」という未来志向的な理念を実現することができるのでしょうか。本稿では、このことについてキャリア・カウンセラーの立場から少しく考え、実現への道筋をざっと素描してみたいと思います。

 

結論から言えば、個人と組織とは、「キャリアの創始・開発」を起点とした経営ドメイン上の実体として「個人と組織が共有するゾーン」あるいは「個人と組織の境界を超えるバウンダリーレス・ゾーン」を設定、構築することによって、「個人と組織の共生」を実現することができるのではないか、という仮説を提示したいと考えます。

「共生」のビジョンを支える経営実体としての「個人と組織の共有ゾーン」あるいは「個人と組織のバウンダリーレス・ゾーン」とは何でしょうか?筆者は、次の4つの経営ドメインを現実に設定可能なものとして指摘したいと考えます。何れも、今後の企業経営に革新を迫る未来志向的なアプローチです。一つは、「個人と組織とによる暗黙の意味と暗黙知というタシットなリソースの共有」、二つは、「個人と組織とによる新たな労働契約関係の共有」、三つは、「個人と組織とによる目標方略の共有」、四つは、「個人と組織との間における要求と報酬のレシプロカルなネゴシエーション・システムの共有」です。

 

個々の「共有ゾーン」について少しく補足します。先ず、「タシットなリソース」は、個人から見れば、個人が仕事の体験過程の中から創始・蓄積する暗黙の意味・価値・信念・その他の認知と暗黙知、すなわち内的キャリアです。組織から見れば、個人が保有する暗黙の意味・価値・信念・その他の認知と暗黙知の集合体としての集合的無形資産です。

次に、「新たな労働契約関係」は、個人から見れば、仕事をすることと、仕事の体験過程や仕事の長年の経験を通じてキャリアを創始・開発すること、の権利および義務を明示する契約への積極的なコミットメントです。組織から見れば、仕事をすることに関する双務的な就業実務契約と、個人のキャリア創始・開発に関する本質的な関係契約とによって構成される新たな労働契約へのコミットメントです。(注1)

三つ目の「目標方略」は、MBOの目的に関わることですが、個人から見れば、単に組織目標を如何に個人目標として内在化できるかに留まらず、組織に対してキャリア・ゴールに繋がる個人目標の組織化を要求していく指向です。他方、組織から見れば、キャリア・ゴールに繋がる個人目標の裁量権や組織化を如何に容認できるかに留意しつつ、組織目標の個人内在化と目標連鎖への指向を意味します。

四つ目の「要求と報酬のレシプロカルなネゴシエーション・システム」は、個人と組織の双方の視点から見て、(1)個人の組織に対する役割・職務の要求と、組織の個人に対する期待役割・業績(成果)の要求、(2)個人の組織に対する業績(成果)の報酬と、組織の個人に対する処遇の報酬、というレシプロカルな均衡状態への指向であり、それを可能にする相互尊重的で相互選択的な話合いです。話合いは、当にキャリア・ネゴシエーションと呼ぶことができます。(注2)

 

何れの「共有ゾーン」の設定・構築にも、大きな困難が伴うことは言うまでもないことでしょう。何故なら、どれもが経営・人事パラダイムの転換と企業人の意識・行動の変革なしには到底実現できないと考えられるからです。しかし、ここでご留意してほしいことは、4つの「共有ゾーン」の何れもが共通して「キャリア」に関わるものであり、「キャリアの創始・開発」が「共有ゾーン」を実体として設定・構築するための起点となっている、ということです。さらに言えば、「共有ゾーン」の設定・構築のトリガー(引き鉄)は、組織が仕事の現場に生き生きとした普通の日々を創りだすことによって、個人が高い納得感に充ちたキャリアを自立的に創始・開発しつつあることを実感しながら日々の仕事をすることができる、ということであろうと考えます。そのためには、個人が仕事の体験過程から産み出すフェルト・センス(感じ・思い・閃き・イメージなど)(注3)を、お互いに大切にし交換し合う組織風土づくりが、求められると考えます。

(注1)P.ヘリオット&C.ペンバートン“Contracting Career”,1996を参照
(注2)キャリア・ネゴシエーションについては同上論文を参照
(注3)E.ジェンドリン著,村瀬孝雄訳『体験過程と心理療法』、1981,ナツメ社を参照

                                                                                                         (完)