保阪正康著 『大本営発表は生きている』

光文社新書

 

 

    国際情報専攻 6期生 増子 保志

   

臨時ニュースのチャイムとともに「大本営発表、帝国陸海軍は・・」というフレーズは、記録映画や昭和史の番組の一場面に頻繁に登場する。「大本営発表」というと、軍部による作為的な情報あるいは虚偽の発表というイメージがつきまとう。大本営発表を定義づけるなら「太平洋戦争の期間中、陸・海軍の統帥機関である大本営が国民に向けて発表した戦況報告」と言えるであろう。

 

しかし、当時の「大本営発表」は単なる戦況報告という役割を超えて「権力」そのものであった。国民は外部からの情報が遮断された状況に置かれ、意図的に操作された情報のみを一方的に押し付けられた。そして、結果的に日本は戦争に敗れ、解体に追い込まれた。当時の軍指導者達は、なぜ「客観的事実」を見ることなしに事実を糊塗しようとしたのか、その表現方法は、なぜ無味乾燥な画一性なものなのか、そして当時の国民は大本営発表に対して、どの様な反応を示したのかについて本書は分析している。

 

発表と実態の食い違い、戦況に応じた発表回数や表現の差異、発表に使用された形容詞の変遷などを具体的な事例をあげ、比較をしながら大本営発表の本質にせまっている。戦局の悪化が進むにしたがって、大本営は「虚構」の発表を続けた。その発表を続けるうちに大本営自身もその虚構の言葉で固められた「幻想」の空間に身を置いてしまった。その結果はご存知の通りであり、軍部における官僚制の硬直化と戦争指導者達の隠蔽体質を如実に表すものである。

 

 虚偽で装飾された美辞麗句に惑わされてはならない。「透明性」「ガラス張り」などという、きれいな言葉を並べてたてて失敗を隠蔽し、精神論のみで解決しようとする姿勢は現代においても同じである。

 

今日、官民を問わず、事象の客観的な分析を行うことをせず、引き際や方針転換のタイミングを誤って著しい損失を被っている姿やその責任逃れの体質は、「大本営発表」当時から今日に至るまで、日本の体質には根本的に大きな変化が見られないことを意味するものであろう。