『オリジナリティとは何か、 日本文化の模倣と創造』 山田奨治著 角川選書 角川書店 ; ISBN: 4047033413 ; (2002/07) ¥1,680 (税込)
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国際情報専攻
6期生 長井 壽満
著者は工学博士、専門は情報学である。完全コピーができる電子データを扱う仕事をし ている。文化・創造活動の過程でコピーが果たす重要な役割、独創はコピーなしにはありえない事実を豊富な例で実証してくれる。「オリジナリティー神話」を否定し、人類の新しい創造活動「再創」を提案している。 「オリジナリティー」という言葉は1742年に始めて辞書に載った。「独創」が日本語として一般的になったのは1930年頃である[1]。全ての創作活動、技術開発、発明、映画、音楽、絵画、書籍、論文、文化活動といえるジャンルは著作権の枠に縛られている。自由な創造を唱えていながら、著作権に縛られ創造活動の範囲が狭まり窮屈になっているのが現状である。 赤ちゃんの言語獲得過程、人間の外界認識方法、学習過程、「オリジナリティー」という言葉が存在してなかった時代の文化活動の形態から解き明かし、豊富な例を示して説明している。「世界不思議発見」を見ているような新鮮さで、固定概念「独創は絶対善」の誤謬を納得させてくれる。 創造は相対的なものである。創造の過程を詳細にたどってみると、コピーしながら新しいと思われる表現形式が現れている。東洋では書道、真似から始まる(写経)。西洋画ではデッサン、写しから始まる。人間の知的活動は写しから始まるにもかかわらず、その権利と権利から生じる価値がなぜこんなに強調されるのか、究極のところは「銭」にからんでしまうからである。 写真技術が生まれた明治時代に写真撮影を職業にする人は「写真師」と呼ばれて技芸家、つまり職人であった。今で言うレントゲン技師と同じである。コピーマシンのオペレーターかもしれない。ところが、今では「写真家」と呼ばれている。「写真師」から「写真家」へ何時、どんなきっかけで変わったのであろうか。コピーする技術は写真からディジタル技術と飛躍的に進んでいる。One clickでコピーができ、世界中に流布できる時代になってしまった。 コピーすることは、世にその物の存在を広く認知させる事である。認知されなければ、いくら創造的であっても、価値=金を生まない。皆が「モナリザ」の絵を知っているということは、それだけ絵がコピーされ流布しているのと同意である。著作権は金を生む仕掛けである。先進国がやっきになって「著作権」を世界中に認めさせようとしている理由はここにある。世界に認知させるような仕掛け(道具)である「言語・媒体・媒体を伝達する電子機器製造能力・資本」を持っているのは先進国である。典型的な例はアメリカのハリウッドやCNNである。アメリカ・メディア産業の輸出額は輸出産業の中で第三位に着けている。 話を写真の世界に戻してみよう。写真術が登場したときに、美術の鑑賞のあり方は根底から変化した。つまり、壁にかかった絵を見る事から、写真やその印刷物で美術品を見ることへと鑑賞の比重が移ったのである。そして多数の写真を並べて比較することから美術史とういうジャンルが生まれ、そこから「名作」絵画というものが誕生した。・・・マルローは世界中の美術品の写真を並べて比較する作業から、人類に普遍的な美の世界を見出そうとした[2]。今で言う、バーチャル美術館である。 筆者はさらに過激にも次のように述べている。写真がもつ最大の可能性は、画像のコピーを作り広める能力であって、その能力がバーチャル美術館のような高次元の認識の手段を私たちにもたらしてくれた。画像を所有権で固めてコピーを制限したり、写真そのものにオリジナル性を求めることは、写真を芸術化し、近代化するうえで重要な役割を果たしてきたが、それと引き換えに、写真はその暴力的なほどのコピー能力という本質を、自ら捨て去ったのである[3]。「芸術化」という言葉が皮肉に聞こえてくる。 著作権の保護の対立軸として、ソフトウェアの世界ではフリーソフトウェア運動、オープンソース運動が生まれた。1971年にフリーソフトウェア運動を始めたリチャード・ストールマンの思想「今日のコンピューター・ユーザーならば、あなたは所有権のあるプログラムを使っている自分を見出すであろう。もしあなたの友人がコピーをくれと頼んだら、それを断るのは罪であろう。協力はコピーライトよりも重要なのである。しかし、アングラで密室的な協力は、よい社会の創世につながらない。人は誇りのある、オープンで正直な人生を切望するべきだろう。そしてこれは、所有権のあるソフトウェアに「ノー」ということを意味する[4]」。創造の起点に触れる思想である。今では商業性が肥大化しすぎ、創造性が尊ばれている。メディアは学校で創造教育を強化すべきだと騒いでいる。でも、何故コピーがいけないのか? 自分の頭で考えなおす時がきているのではないだろうか。 文化の発展とは、より多くの人々がより快適な表現をして、それを享受できることをいうのではないだろうか。表現の新規性や多様性を文化の発展の尺度にする常識的な考え方は、間違いである。表現で重要なことは、受けてにとっての快適さである。・・・あたらしい快適な表現を作りうることがあるとすれば、それはすでに存在する表現要素の、あらたな組み合わせを発見することに過ぎない。したがってそれは独創でなく再創である。再創者は社会的尊敬を受けてよいだろう。しかし再創されたものは人類共有の資産であって、排他的な権利の主張が安易に許されるものではない[5]。 最後に筆者はこう結んでいる。文明化を「市民化」と考えるならば、情報文化の本質が理解できるだろう。「市民化」とは、人々が自立的、自発的に公共性の形成に参加することである。公共性の形成には、コピーという手段によって情報が流通して、共有されることが鍵となる。ディジタル技術によって、人類は有史以来、もっとも強力なコピーの力を手に入れた。ディジタルのコピー力は、情報の独占による近代的な富国の方法をなし崩しにする[6]。 この発想は、産業革命以降築きあがられた独創・オリジナリティーの考え方は否定するものである。代わりに「再創」を提案している。知的所有権・著作権の過度の広がりは社会の不安・不公平を招く。例えば、製薬会社はエイズ薬のコピーを禁止して、高価格を維持しようとしている。極端な富の偏りは人間社会にとって有益ではない。そろそろ資本偏重の考え方を変える時がきたのではないか。 本書は、知的活動している人々だけでなく、ディジタル技術者、情報、メディアを扱っている人にとっては必読の書である。本稿の多くの部分は引用(コピー)から成り立っているのだから。 以上 [1] 山田奨治『オリジナリティとは何か、 日本文化の模倣と創造』角川選書、平成14年6月30日、13頁。 [2] 同上、77頁。 [3] 同上、79頁。 [4] 同上、108-109頁。 [5] 同上、211-212頁。 [6] 同上、215頁。
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