《六花の窓から見た中国》 第2回
  
             
趙紫陽の死と胡温体制(上)−

 

                    国際情報専攻 4期生 ・修了 諏訪 一幸

 

   

 私にとっての2005年は趙紫陽の死とともに始まりました。1989年の「6・4天安門事件」(「6・4」)で失脚し、それ以降自宅軟禁状態にあった趙紫陽が去る1月17日、85歳の生涯を閉じたのです。わが国の主要各紙は翌18日、彼の死を悼む記事をいっせいに掲載しました。私も、「死を悼む」という点では同じなのですが、「信念貫いた真の改革者」「改革・開放の旗手」など、彼を英雄視する報道には、正直なところ違和感を覚えています。なぜなら、事件当初(同年4月中下旬)、当事者の一方である大学生の間では、総書記の趙紫陽こそが打倒すべき最大の「官倒」(特権を利用して暴利をむさぼる共産官僚ブローカー)であるという認識が広く共有されていたことを私は知っているからです。開明的指導者ではあったが、共産党政権の崩壊までは視野になかったという意味で、決して「中国のゴルバチョフ」たりえなかった元指導者。党内闘争に敗れ、不遇な晩年を送った元指導者。趙紫陽に対する私の評価は、これ以上でもこれ以下でもありません。

 

 胡耀邦(趙紫陽の前任の総書記)の死を悼む学生の街頭行動が、前年に起こった年率20%ものインフレや強い社会的閉塞感を背景に、共産党批判の大衆運動へと発展し、最後は権力闘争の犠牲となる形で、軍によって弾圧されたのが「6・4」です。できる限り事を小さく済ませたいと思っている当局ですら、319名の死者が出たことを認めています。

 私は当時、学生運動の中心となった北京大学で中国語を勉強していました。「6・4」の瞬間に天安門広場にいなかったため、運動の最後の瞬間は見届けることができませんでしたが(もっとも、見届けていたら命はなかったかも知れません)、それ以外の主だった過程は一部始終を中国人学生の中から観察していました。そして、「89年『愛国民主運動』と武力弾圧について」と題するレポートを6月23日に書き上げました。長くなりますが、以下は趙紫陽と特に関連の深い部分及び結論部分です(なお、本文中の〔 〕内は当時の肩書き或いは若干の解説です)。

 

<学生運動と党内政治闘争>

 「ごくごく少数の人間が動乱を通じて、中国共産党の指導を否定し、社会主義制度を否定しようという政治目的の達成を目論んでいる」(5月19日、首都党・政・軍幹部大会における李鵬〔国務院総理〕講話。略称「李鵬講話」)。党内闘争と学生運動とは一体如何なる関係にあったのだろうか。この問題の解明はかなりの部分推測に頼らざるを得ないが、学生の動きと公式報道、そして信憑性の高いと思われる一部資料に基づいて考察する。

 まず、基本認識として、積極的経済改革を推進する趙紫陽は88年以降、二桁インフレが進む中で経済政策の責任を問われ、批判の矢面に立たされていたことがあげられる。

 5月28日のデモ用に北京大学で印刷された「楊尚昆〔国家主席〕同志の軍事委員会緊急拡大会議における講話要点」(略称「楊尚昆講話」。なお、会議は24日開催)によると、4月26日の「動乱」社説〔学生運動を「動乱」と断定した、4月26日付『人民日報』社説〕について、当時北朝鮮訪問中だった趙紫陽は電報で「同意し、完全に擁護する」旨通知した。然るに、趙は30日に帰国した後、社説のトーンは強すぎ、正確でない、学生運動は愛国的なものであり、社説は誤りである旨発表するよう要求したとされる。亀裂はこの時点で発生した。従って、学生運動が胡耀邦の死直後から始まったことを考えると、趙が運動を「指導」したとは言えない。

 5月4日は一つの重大転機である。この日、趙はADB〔アジア開発銀行〕総会出席者と会見した際、「デモ隊中の絶対多数の学生は決して我々の根本制度に反対しようというのでなく、仕事上の誤りを改めるよう要求しているのである」と、学生運動に一定の理解を示した。この発言を李鵬、楊尚昆はそれぞれ次のように批判する。「多くの工作により情勢は既に平穏に向かっていたが、5月に入ると動乱の度合いは一層激しくなった」(李鵬講話)、「5月4日以降、我々の中のある同志が突然、今回の運動は愛国的、かつ理に適ったものであると言ってしまったため、運動は再び盛り上がり、ハンストへと発展してしまった」(楊尚昆講話)。2人は、4日の趙発言と、それ以降、特に13日のハンスト開始以降の運動の高揚との間に直接的関係を求めているかの如きであるが、事実はそうではない。即ち、学生運動は「五四宣言」〔5月4日に天安門広場で学生側が発表した宣言。運動の成功とキャンパス内での継続闘争を呼びかけた〕以降、実際には低調期を迎え、終息へと向かう気配を見せていたのであり、更に、ゴルバチョフ訪中を2日後に控えた13日、趙は首都労働者との会談の席上、学生であるなしに拘わらず、中ソ首脳会談に悪影響を与えるのは道理のないことであり、人々の同情や支持を得ることはできない旨、明確に述べていた。党総書記として当然の発言であろう。

 趙の希望とは裏腹に、学生は13日からハンストを開始する。この日、趙は政治局常務委員会において、「動乱」社説を否定する旨主張したが、4対1で否決されたという(5月20日デモ用北京大学ビラ)。この時点までの趙の基本的スタンスは、ゴルバチョフ訪中までにできる限り穏便な形で事態の収拾を図る、或いは、最大限うがった見方をしたとしても、趙は5月4日以降学生の間に徐々に形成されつつあった「偶像としての英雄趙紫陽」像を、また学生運動を利用しつつ、不安定な自己の地位をより確固たるものにすべく、事態の収拾を図るというものではなかったろうか。

 趙が真の意味でケ小平を後ろ盾とする李鵬らの勢力に挑戦を挑むことを決心したのは16日の時点であったと思われる。同日夕、ゴルバチョフ・ソ連書記長と会談した趙は、「13期1中全会において、最も重要な問題では依然としてケ小平同志の舵取りが必要であるとの決定がなされた」ことを初めて公表、運動に対して学生の納得する措置が取れないのはケの同意がないためであることを暗に示した。楊尚昆は、「(趙のこの発言は)一切の誤りがケ小平同志にあるというものである」(楊尚昆講話)と非難しているが、果たせるかな、翌17日はケの引退を求める100万人デモとなった。こうした騒然たる雰囲気の中、19日未明、趙と李鵬は天安門でハンストを続ける学生を見舞ったが、学生によると、趙とは逆に彼らに対する李の反応は極めて冷淡だったという。そして、その夜開かれた北京市の一部に戒厳令を敷くことを決めた超法規的会議に趙は欠席し、失脚が確定する。翌20日に戒厳令が発動されると、各地方、各機関及び長老らは次々と支持を表明し始める。即ち、25日までには全ての一級行政区及び7大軍区が、26日には中央顧問委員会がそれぞれ戒厳当局支持を表明した。彭真〔前全人代委員長〕もこの日、戒厳令の合法性を主張し、更に27日には万里〔全人代委員長〕が自己批判とも受け取れる支持表明を行ったことにより、強硬派のラインで大勢が固まる。趙排除の後は学生対策が当然の課題となるが、6月3日の「緊急通告」通知直後から戒厳当局は情け容赦ない弾圧の挙に出、一夜のうちに学生運動を葬り去ったのである。

 以上見てきたように、胡耀邦の死をきっかけとして自然発生的に始まった民主と自由を求める学生運動は、5月15日までは明らかに自己主導型で行われてきたが、ゴルバチョフ訪中後は苛烈な党内権力闘争の道具と化し、権力者に弄ばれ、無惨に唾棄されたのである。趙紫陽は「ごくごく少数の人間」の中心的人物として、確かに学生運動を利用していたように思われる。その利用のされ方が学生にとっては、「歓迎さるべきもの」だったのかも知れないと考えると、その失敗に我々は「二重の意味での悲劇」(運動が利用されたこと、そしてそれが失敗したこと)を見て取れまいか。

<中国と学生運動の将来>

 今回の学生運動は、恐らく一部の「暴乱分子」に責任を押しつけるという形で、表面的、形式的には決着を見よう。即ち、指導者層においては趙紫陽以下「ごくごく少数の人間」にその禍根は求められ、学生・市民の間ではケ小平、李鵬、楊尚昆ら強硬派にその責任が求められることになろう。

 ここに、中国人特有の責任転嫁という問題がある。文化大革命を断罪した「歴史決議」(81年6月、党11期6中全会で採択)によると、文革については「(林彪・四人組が)毛沢東同志の誤りを利用し、彼に背いて国家と民に災いをもたらす多くの悪辣な行為を行った」という形で、その責任の所在が示された。また、今回は「この反革命暴乱の画策者及び組織者は、主としてブルジョア自由化の立場を長期にわたって頑固に堅持し、政治的陰謀を企んでいるごく少数の人間、海外・国外の敵対勢力と結託した人間、不法組織に対して党・国家の核心に迫る機密を提供した人間である。実際に殴る、ぶちこわす、奪う、焼く等の行為を働いたのは、主として刑期満了で釈放されたが(思想)改造がうまく行われていない一部の人間、一部の政治的チンピラ集団、四人組の残党及びその他社会的屑である」とされる(6月5日付「中共中央・国務院の全共産党員及び全国人民に告げる書」)。指導者と大衆という枠組みで2つの事件を捉えると、文革はカリスマ的指導者が権力奪回を狙って発動し、大衆運動を利用したものであり、今回は自然発生的な学生運動を指導者が地位を堅固なものにする、或いは政治的対抗者を失脚に追い込むため利用したものと言えよう。そして、事件を引き起こした者に最大の責任があるとすれば、その責任は指導者個人及び学生(ないしは学生運動指導者)にそれぞれ求められる。しかし、世界を震撼させたこのような事件が中国で起こったのは紛れもなく中国人一人一人の責任においてである。我々は、権威主義を批判する中国人の内面に、無意識の強い権威主義があることをしばしば発見する。官僚ブローカーを批判するのは自分にそれだけの特権がないからに他ならない中国人が少なからずいることも、我々はまた知っている。自省のないところに進歩はない。経済改革、政治改革も勿論避けて通れない道であるが、意識改革こそ最優先されるべきである。問題意識のないまま当事者となり、形勢不利となると少数のスケープゴートに責任をなすりつけるという中国人の体質が改められない限り、今回同様の政治的悲劇は今後も繰り返されるであろう。

 学生らは僅かばかりの勝利を手にするため、余りに大きな犠牲を払った。この挫折感は今後も大きなしこりとなって残り、人々の心に点された希望の灯りを圧倒するであろう。

 これまでに公表された指名手配者は市民の協力を得て大部分が逮捕されるだろう。しかし、彼らの一部とその仲間は極めて弱小ながらも実質的に中国初の地下組織を結成するのではないか。党の崩壊などは考えられないほど、中国共産党は充分に強固であるが、今後予想される「ブルジョア自由化反対」等の思想統制にも拘わらず、政治生活から全く疎外された大部分の人々の無関心と、反党・反政府地下組織及び学生・知識人の積極的抵抗との板挟みを受け、党・政府指導者はますます苦しい立場に立たされることとなった。

 〔76年の第一次〕天安門事件同様、今回の「反革命暴乱」に対する評価も、いつの日か「革命行動」へと逆転評価される可能性があることは否定できない。しかし、天安門事件との比較で言えば、今回の事件に対する逆転判決が下される可能性は、近い将来においては大きくないように思われる。それは、天安門事件が文革といういわば時流に逆行する流れの中で、そのクライマックスとして発生したのに対し、今回の武力弾圧は改革・開放という現実的流れの中で生じたからである。今後とも開放政策が引き続き取られるという前提に立てば、その評価を巡る劇的展開はあまり望めそうにない。

 当面は近い将来予想されるケ小平の死に向かって双方のせめぎ合いが展開されよう。ケの死は、現在予想される最悪の事態(党の崩壊、内乱など)にまで発展することはないと思われる。かなり激しい権力闘争が繰り広げられようが、結果的には恐らく、改革・開放のより一層のスローダウンといった程度に落ち着くのではなかろうか。

 

 「趙紫陽」の名前を聞くと、私は条件反射的に16年前の初夏の出来事を思い出します。武力弾圧の後に訪れた繁栄をどう評価したらよいのか。古びたレポートを引っ張り出したのも、そのための記憶を蘇らせるためなのです。次回の「六花」では、趙紫陽というかつての指導者の死をめぐる中国共産党の対応ぶりを考察すると同時に、「6・4」を多少意識しつつ、今の中国の政治社会状況を考えてみたいと思います。     

                                  以上