キャリア・カウンセラーのつぶやき( 4)                                            

        「仕事の体験の風化またはキャリアにおける無名性について」

 

                             人間科学専攻 2期生・修了 笹沼 正典
                    
現在、シニアSOHOメタキャリア・ラボ代表

   

 私は、昨年の拙稿「体験からキャリアへー暗黙の意味を通じてー」(電子マガジン17号)において、上司と部下の相互関係といった日常的な仕事の体験過程のある局面を例にとって、次のように述べました。日常的な仕事の体験過程のある局面を“解きほぐす”ことによって、人はその過程局面がもつ多面的な局面内容(コンテンツ)に関するさまざまな“感じ、思い、イメージ、閃き”(以下「フェルト・デイタム」(注1)と総称)が生み出され、実感として流れていることに“気づき”ます。“第一の気づき”です。

 次に、気づかれた「フェルト・デイタム」には、何かの喜怒哀楽・怨憎会苦などの情動(エモーション)と伴に、例えば“誇らしさ、期待感、自負心、感謝、尊敬、私淑する心、あるいは疑惑、批判的な感情、侮蔑感”などといった“自分にとっての意味、価値、信念、その他の認知”(以下「暗黙の意味」と総称)が含まれていることに人は“気づき”ます。この“気づき”は“第二の気づき”です。“気づき”とは共にまさに創造的な発見と言えます。“暗黙の”とは、さしあたり、“気づかれているけれども、未だ自分の言葉で語られていない”ということです。

 さらに、普段に仕事することをこのように“解きほぐす”ことを進めていけば、人は誰でも自分なりの「暗黙の意味」に気づき、次にそれを言葉で言えば何であるかを明らかにすることができるようになる、と一般化しました。そして、言語化された「自分にとっての意味」こそが、「仕事に関わって生きていく自分にとっての意味を追求・獲得する過程」としての「内的キャリア」を創生・開発していく、という仮説を提示しました。

 しかし実は、この仮説には、容易ならぬ「落し穴」があることにすぐ気がつきます。日本の伝統的な企業組織において我々が長年経験してきた職場の風土や構造等の実態を顧みるならば、先ず、日々の仕事の体験のプロセスのなかで、「フェルト・デイタム」への気づきがそれほど容易には生みだされるとはとても思われません。従ってまた、「フェルト・デイタム」に含まれる「暗黙の意味」への気づきもそれほど容易には生みだされるとは思われないのです。さらに言えば、「暗黙の意味」を言葉で語ることは、もっと困難なことに思えます。特に、「暗黙の意味」が、組織の中で公式に流通する言葉で明確化されるのではなく、「私の言葉(パロール)」によって多分に曖昧さを含んだまま探索的に語られることは、現場の日常の中に置かれた個人にとってはきわめて困難な営為であると思われます。従って、仕事の体験から「暗黙の意味」を経てキャリアの創生・開発へ至る仮説の成立を阻むこれらの「落し穴」は、現実の仕事の体験のプロセスのなかで我々がいとも簡単に陥りやすい、恰も氷河のクレバスに似た亀裂だという捉え方が必要でしょう。個人は、日々刻々に流れる仕事という氷河に潜む幾筋かのクレバスを越えなければならないのです。個人にはそれだけの心構えと方略が、同時に、組織にもそのような課題を背負う個人を支援するだけの経営ビジョンと戦略が求められます。本稿では、個人や組織がとるべき方略や戦略などを考察する前に、一見楽観的とも思えるこの仮説の成立を阻む恐れがある、仕事の体験過程上に走るクレバス(亀裂)について臨床的に検討しておくこととします。


 第一の亀裂は、「フェルト・デイタムへの気づき」は容易には生みだされない、というクレバスです。「フェルト・デイタム」そのものは、仕事体験のなかで何かを“感じ、思い、イメージし、閃いた”ものですから、知覚した情報です。この情報を捉えた「わたし」は、「即自」(注2)としてあるがままの「わたし」です。ここには、「気づく」ことの主体としての「わたし」はおりませんから、当然にも如何なる「気づき」も起こりえません。「フェルト・デイタムへの気づき」が生み出されるためには、「即自」としての「わたし」を映し視る眼が必要であり、その眼をもった「わたし」の存在が必要になります。言い換えれば、「対自」としての「わたし」が「気づく」ことの主体です。「即自」としての無媒介的で直接的な「わたし」から「対自」としてのより自覚的な「わたし」への変容には、「即自」として剥き出しの「わたし」を映し視る眼の獲得という媒介が必要な条件となりますが、眼の獲得という媒介は、現実の仕事体験の現場において決して容易なこととは言えません。もし、「即自」として剥き出しの「わたし」を映し視る眼の獲得に成功しなければ、「即自」としての「わたし」が豊かに感じている「フェルト・デイタム」は「わたし」に気づかれることもなく、過去という時間の深い闇の中へ風化していくことになるのではないでしょうか。日々刻々の仕事体験が過去の闇へ風化してゆくという悲しい慣性は、人が抱え込まざるを得ないものですが、それはここから始まるのではないでしょうか。人が自分を映し視る眼の獲得という媒介を得ることは、日常の慣性に耐えて「フェルト・デイタム」に意識を集め、探照する、より高い自覚的な営為によって初めて可能となると思われます。個人にとって「気づき」が創造性の原点であり、自己変容の第一歩であるということは、日常における「フェルト・デイタム」風化への慣性に耐え抜かれたこととして了解しうるのです。

 

 第二の亀裂は、“感じ、思い、イメージ、閃き”に含まれる「暗黙の意味」への「気づき」もまた容易には生みだされないことです。仮に「わたし」が「対自」への変容を遂げ、何らかの「フェルト・デイタム」の流れに気づくことができたとしても、そこと「暗黙の意味」への“第二の気づき”との間には深く危険なクレバスが横たわっています。何故なら、「フェルト・デイタム」は、先ず喜怒哀楽・怨憎会苦などの情動として感じられるからです。仕事を体験する過程において第二の亀裂を超えようとするための何の営為もなしえないならば、人は最初に感じられた情動の消失とともに、折角の内面の動きそのものも消失させてしまうことになるでしょう。これもまた仕事の内的現実であり、仕事の日常的な慣性をなすものです。内面の動きそのものが情動とともに消えてゆくという日常的な慣性に耐えながら、暗黙裡の世界で“感じられた何かは一体何であるのか”を探し求める心の動きが求められます。「対自」としての「わたし」によるこのような心の動きによって、初めて「わたし」は「フェルト・デイタム」に豊かに含まれるもうひとつのプロセスである「暗黙の意味」への「気づき」に到達することができます。

 従って、“第二の気づき”までの道のりもまた「創造的な発見」の旅だと言えるでしょう。その旅は、個々には切れ切れでバラバラな仕事の体験が風化と無意味性に耐えて、「意味」を獲得することによる「わたし」という全体性と個別性に向かう運動としての旅である、と理解することができるでありましょう。ここで、仕事の体験が「暗黙の意味」に気づかないことによって齎される無意味性が、「内的キャリア」の無名性を運命づけています。「わたし」という全体性と個別性に向かう運動としての旅は、無名性という運命をも背負わされた「内的キャリア」の最初の姿であると言ってよいでしょう。

 

 第三の亀裂は、気づかれた「暗黙の意味」を言葉にすることのほとんど絶望的なまでの困難さです。人が風化と無名性に耐えて「感じられたものやこと」の記憶を絵や言葉にする戦いの困難さ、過酷さ、重い負担などについては、すでに、画家・詩人・小説家・臨床心理学者などによりさまざまに語られている様子を見ました(電子マガジン第18号「記憶からキャリアへ」)。また、「暗黙の意味」を語ることが「意味を生成する」ことと同じ意味であるならば、意味を生成するために使われる言葉は、「自分の言葉」(パロール)なのか、世間で流通している客観的な言葉(ラング)なのか、あるいはそれ以外(例えば、特定のコミュニテイ―で使われる言葉)なのか、についても賑やかな議論があるようです。日常における切れ切れでバラバラな仕事体験の風化と、何の意味も与えられないという文脈での無名性も、最終的には、「暗黙の意味」の言語化がなされず、従って体験が何らの「意味」も創生しえなかったことによって確定されることになります。「わたし」という全体性と個別性に向かう旅としての「内的キャリア」が内包する本質的な無名性の根拠を、第三の亀裂に指摘することはさほど困難ではないと思われます。なお、「内的キャリア」の無名性は、「外的キャリア」がもつ本質的な有名性とアンビバレントな、キャリア開発上の葛藤を生みがちな関係にあることに留意したいと思います。

 ここまでの「わたし」は、まだ自分だけしか存在しない世界を前提としています。言うまでもなく、人間は生れ落ちたときから本源的に社会的な存在であり、現実の「わたし」は、常に他者の存在を自らの存在のアプリオリとして生きております。

 

 第四の亀裂は、「フェルト・デイタム」と「暗黙の意味」への豊かな「気づき」、ならびに「暗黙の意味」の多様な言語化が、仕事の現場での日常的な他者との関わりの中で、さらにその関わりが作り出す組織というコミュニテイ―の風土と構造の中で、なされなければならないことの実際的な困難さです。個人が、仕事の体験に走る深い亀裂を越え、豊かな「気づき」と「意味」を生み出すことができるためには、“生き生きとした普通の日々を仕事の現場に創り出す”ことが、個人と組織にとって最も重要なテーマになると考えます。私は、「生き生きとした普通の日々を仕事の現場に創り出す」マネジメントの革新こそが、個人と組織が共生に向かう関係を創造するための中心的な課題であると考えています。このようなマネジメントを、私は「気づきのマネジメント」と呼びたいと思います。「気づきのマネジメント」の中では、個人には、体験の亀裂を超えて生き生きとした普通の日々を創り出すだけの覚悟と工夫と方略に基づく意識と行動の変革が求められます。同時に、組織のコミュニテイ―には、仕事体験の亀裂を越えて生き生きとした普通の日々を創り出すことで、積極的にキャリアを創生・開発しようとする個人に対する多面的な支援施策と、その前提になるビジョンおよび戦略の転換ならびに組織風土・組織構造の変革という重たい課題が課せられることになると考えます。このテーマについては、稿を改めることにいたします。

 (注1)felt datumE.ジェンドリン,Experiencing1961参照
(注2)即自、対自,対他は、城塚登「ヘーゲル」,1997参照            (完)