連載「裏方物語」  8

 

       生涯一運動家                                                                    

                                          国際情報専攻 5期生  寺井 融

                                                                                      

 

 

 

 

 

 毎年、1月24日が定例日。昭和351960年1月24日が、民社党の結党記念日なので、「OB会総会」が行われる。スタートは、民社党本部事務局職員のOB会であったのだが、現在は国会議員や秘書も加わっている。毎回7,80人は集まる。

 第1部が講演会で、第2部が「総会」と立食パーティである。中央には、いまはなき民社党旗が掲げられ、はじめに民社党歌を歌う。「ヒットラーユーゲントのOB会みたいだね」と、口さがない人は笑う。会場では「やぁ、しばらく」とか、「いま、何をやっているの?」といった言葉が飛びかう。

 解党10年となったが、ところで、本当に「何をしている」のか。もうリタイアしている人、民主党本部をはじめ政治関係で働いている人、完全に畑違いの民間会社でがんばっている人など、人様々だ。

 

 といっても、かつて政治活動家であっただけに、「三つ子の魂、百までも」で、ボランティア活動や市民運動を行っている人も多い。

 

 たとえば、「拉致問題」である。横田めぐみさんの拉致について、国会ではじめてとりあげられたのは、平成91997年2月3日の衆院予算委員会の西村真悟質問である。質問するきっかけは、現在、特定失踪者問題調査会代表を務めている荒木和博拓大教授から、「国会で質してほしい」と要望があったからである。荒木教授も西村代議士も民社育ちである。

 

 蛇足ながら、当方はその西村代議士のもとで、3年3ヶ月にわたって政策秘書を務めた。もちろん国費で支給された手当ては全額もらった。本人は清貧の人で、いまどき珍しい雨漏りのする家に住んでいても、恬淡としている。風呂桶がこわれたときも修繕しようとせず、銭湯通い。支援者が見かねて修繕をかってでたという話もある。「ボロは着てても心は錦」タイプで、虚飾を嫌う。鞄は秘書に持たせない。奥さんが寝込んだときも、本人が買出しをして、カレーをたっぷり作り置きしていた。その彼の尖閣列島上陸や、北朝鮮のテポドン発射への抗議集会で、「裏方」を務めたことが誇りである。

 

 また荒木氏は、手弁当で「拉致救出国民運動」を始めた。池袋で行われた「救う会」の第1回集会では、頼まれて受付などを手伝った。特定失踪者調査会は、彼の印税の寄付でスタートしたときいている。

 

 「当時はまだ一般の関心は薄く、拉致を本気にしない人も少なくなかった。その上『北朝鮮は怖い』という意識も強かったから、運動にしていくのはたやすいことではなかった。そんな中で裏方回り、地道に運動を支えてくれたのが民社・友愛の仲間たちだった」財団法人富士社会教育センター発行『富士ネットワーク』第20と、荒木氏は述懐する。事実、各地の「救う会」で献身的に活動しているメンバーの中にも旧民社関係者が多く、特定失踪者調査会の真鍋貞樹専務理事、杉野正治理事も、民社党本部の仲間である。

 

 「新しい歴史教科書をつくる会」では、評論家で拓大客員教授の遠藤浩一氏が、副会長として活躍している。彼は「平成六年暮れの解党まで民社党本部の書記として、比較的気持ちよく働くことができた。それは民社党といふ政党には、他党にはない『勇気』があつたからだと思ふ。四十も半ばを過ぎて、あのときかうしてゐればよかつたと後悔することがほとんどない。…民社党では給料をもらひながら生きた政治学を勉強することができた」高橋正則著『回顧九十年』富士社会教育センター刊「解説」よりと述べている。

 

 荒木、遠藤の両氏は、かつて当方とともに民社党月刊誌の編集に携わっていた時代があった。後輩の活躍で、誇らしい気分である。

 

 彼らだけではない。ある高齢者向けフェステバルで「あらっ、寺井さん」と声をかけられた。兼松信之君であった。彼は「NPO法人働き盛りの会」の名刺をくれた。私も、自分が創設にかかわった「NPO法人アジア母子福祉協会AMCWA」の名刺を差し出す。

 

二人して「NPO法人ねぇ…」と声があがった。政治活動ではないものの、“民社っ子”は何らかの社会運動に携わっていたいのである。当方の団体は、ミャンマーへの「里親制度」で設けたり、子供たちにノートを贈ったり、超音波の医療機器を送ったり、ボランティア活動を展開している。

 

彼の団体は、性別や年齢で働き盛りが退職させられていく日本の現実を、改革するのが目的だという。ほかにも、ボランティアでお年寄りに本格的なマッサージを施して喜ばれている仲間もいる。

 

 おのおのが得意分野で、昔の党活動の延長線として、社会貢献を果たしているといってもよい。

 

 いまの政党本部には、どんなタイプの人間が入ってくるのであろうか。また、政策秘書など公設秘書にはどのような人が雇われるのか。

 私の時代には、とにかく「党が好き」なり、「議員が好き」の“惚れ込み型”が多かった。もちろん、「ほかに勤め口がなかったから」とか「ただなんとなく」という人も、いるにはいた。それでも一宿一飯ではないが、同じ釜の飯を食っていると、愛着が湧いてくるものである。党や政治家に対するロイヤリティは、それなりに高かった。裏方が活躍する余地も大きかった。現在はそうではないらしい。所属政党が気楽に替わるのは、議員同様、裏方たちにも起こっている。政党に個性と魅力を失えば、「昨日佐幕、今日勤皇」なのも、いたしかたないのかもしれない。寂しい!                     

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