―ある小学校教員の戦後―
文化情報専攻 4期生・修了 具島美佐子
「敗戦」という表現が正しいものかどうか、それは私にはわからないが、私の母方の祖父にとって、昭和20年8月15日はまさに敗戦であり、彼の人生が思ってもみない方向に転換した分岐点でもあった。祖父は明治35年生まれであり、丁度50歳の時に生まれた私は彼の初孫であった。従って、幼い頃の祖父はまだ働きざかりであり、ちょっと近寄り難く、こわい人という印象が強かった。小学生になると祖父から葉書をもらったことが何回かあり、そこには旧仮名遣いで書かれた文章があった。たしか小学校5年生の頃、休みの日に母の実家で昼食を囲んだ際の出来事は、40年以上たった今でも鮮やかな記憶となって思い出される。 昭和38年当時、お昼のTVニュースで、自衛隊の新しい幕僚長の方の認証式の模様が放送されていた。担当のアナウンサーが「○○新幕僚長は元軍人で………」と放送した時、祖父は大きな声で「元軍人だってなあ!」と、ため息をついたように言放ったのであった。祖父の口から深い感慨をこめた言葉が飛び出してきたのは、これが最初で、また最後であった。私は祖父からその心中をさらけ出すような言葉を直接聞いたわけであるが、この体験は、自分が人生の折り返し地点に立った時に、ますます強烈なものとなった。まだ11歳になるかならない私は、全く気がつかなかったが、この時祖父は61歳であり、幕僚長となられた方は50歳代の後半で、共にアプレゲールの中高年であったのである。 大正時代に地元の師範学校に学んだ祖父は、40歳代前半で校長となった。しかし若い頃にはそれなりに苦労もしたようであった。当時の地方都市の慣習、さらに訓導としての立場から恋愛もゆるされなかった事情があって、22歳位で従妹の女学校時代の友人と結婚をした。この一歳下の妻との間には、二男三女を設けたが、上の三人は大正十五年の秋から昭和五年の春の間に生まれており、この三人の教育にはそれなりの理想をもっていたようであった。特に第一子である長男には自分の達せられなかった夢を託し、旧制高等学校、帝国大学という戦前の立身のコースを歩ませようと期待をしていた。 戦前の師範学校からも高等師範や文理科大学への進学が可能であった。また場合によっては帝国大学への進学も僅かな例があったようであるが、早くに家庭をもった祖父には日常生活に追われる明け暮れであった。祖父はまたよく「帝大の人間はちがうな」ということも言っていた。これは挫折感というよりも、最高学府への憧れがあったのであろう。祖父の年齢の前後の近代日本の作家には、川端康成(明治32年生)や高見順(明治40年生)がいる。これらの作家たちの第一高等学校や東京帝国大学での学生生活は、当時の同年代の青年と比べると非常に恵まれた高度な知的環境での生活であった。 井上靖の自伝的小説『しろばんば』等にも描かれていたように、師範出の教員は裕福な家庭の子女に家庭教師として個人指導を行い、幾ばくかの副収入を得ていた。祖父も例外ではなく、県庁所在地の県立中学や女学校への合格者を数多く生み出すことではかなり定評のある教員であった。祖父の早い時期の教え子たちは、第二次大戦の最前線で戦った年齢の人々であった。軍人や軍医の家庭が主なアルバイト先で、県立中学への進学者はまた陸海軍の士官養成機関に進学していったのであった。陸軍の八紘石腸隊の隊員となった人もおり、祖父もまた戦争への協力者であった。 この戦争への協力ということは戦後の祖父の心の中に深くくすぶっていたことであろう。伯父との対立も戦争責任が根底にあったことと私は勝手に想像をめぐらしているが、明治人である祖父にどの位の自責の念があったのかは不明である。祖父自身は戦争には一度も駆り出されたこともなく、兵役の経験もなかった。祖父と同年代の作家たちは第二次大戦には報道班員として召集されており、戦争に協力せざるを得なかった。この年代の人々には避けて通れないものが、戦争への間接的な協力であったのであろう。 昭和20年という年は、祖父母にとっては大変な時期であった。長男である伯父と、長女である母とが同時に県庁所在地の師範学校に入学した。また次女の叔母を県庁所在地の女学校から郷里の女学校に転校させた。この三人は祖父母が二十代の時に相次いで生まれており、特に女学校を四年だけで繰り上げ卒業した母は、伯父と師範で同学年となってしまったのであった。それは高等学校から帝国大学へという立身出世のコースから伯父がはずれてしまったからであった。やがて農地解放で、不在地主の土地はとりあげられることとなったため、祖父は小学校の校長の座を投げ打った。郷里で祖母と共に慣れない農業に励むこととなったのである。また家の手伝いのために長女である母は師範を中退するが、やがて祖父と伯父は時代の趨勢から対立するようになり、伯父は家を出た。祖父の不遇が深まったのもやむをえないことであった。 四十代半ばで農夫となり、その後五十年以上の歳月を祖父は生き抜いた。戦争によって職業を失ったことと同義である。元軍人の方が戦後社会の担い手として再起したことをテレビの映像で直接目にしたことは、祖父に深い挫折感を痛感させたのかもしれない。「元軍人だってなあ!」という言葉が出た直後に祖母も母も、何の言葉も発しなかった。数分間全く無言の静けさが続いた。祖父の心中を最も知ることができたのは、妻である祖母と長女である私の母であった。社会体制の崩壊がある人間の生活を激変させ、深い挫折感を与えることは近い時代では阪神淡路大震災などであろうか。しかしもっと無残なものが戦争であったのだ。 当時小学生の私も今は52歳となった。社会人として幾つかの浮沈を経験したが本学大学院への入学により、少しずつ生きる力を取り戻すことができた。アプレゲールの中高年に比べて、現代の中高年である私はかなり恵まれている。社会では年功序列制がくずれつつあり、中高年のリストラも盛んであるが、学ぶ喜びを味わえた人間には、学ぶことで生きる力がつくものである。では学ぶことができなくなった環境の人間はどうすればいいのか、祖父は平成10年に90歳代の後半で死去したが、90歳位までは日記をつけていた。さらに70歳くらいまでは地域の民生委員として活躍したことも彼の人生の救いであった。祖父の生涯は、孫である私に生きることへの貪欲なまでの意志を教えてくれた。 社会の変動は中高年の人間を無残な境遇においやったり、極端な場合は自らの命を絶たせたりするが、最後まで生きる意志をもつことが何よりも大切なことを私は祖父からも学ぶことができた。さらに祖父の人生への深い共感は、私が修論で取り上げた成島柳北であり、また井伏鱒二の『黒い雨』がその要因であったであろう。戦争による人間の挫折と再生、時代の変動による境遇の変化など、さまざまなことが重なり合って、私は肉親である祖父の戦後の生活を客観的に眺めることができるようになったのである。どんなに変動の激しい環境であっても、日々学ぶという姿勢が「生きる」ことの基本である。
(参考文献) 『日本史辞典』角川書店 1996、11、20。
『現代作家辞典』東京堂出版 1974、1、10。 |
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