私の踊り場

 

                          国際情報専攻 4期生・修了  長井 壽満

   


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月に脳梗塞で倒れてから早半年、私にとって大きな変化の半年であった。日ごろの行いが良かったせいか、天は私に人生を続けるだけの体力と気力を残してくれたと感謝している。

 生命には生と死、誰にでも平等に訪れるのだが、訪れるまでは誰も真面目に考えない不思議な事象である。歴史を紐解くと、誕生そして冠婚葬祭は社会の中で大きな位置を占めていた。昔の生と死とは普通の存在として生活の一部であった。人・家族の注視の中で生まれ死ぬのが普通である。「人と人」の関係は濃密であった。昭和30年位からだろうか、高度成長とともに人間関係が希薄になったのは。83歳の母と一緒に生活している。ちょっと遅い自覚であるが、自分が倒れてから始めて老いとはなんであるか理解できるようになった。やっと、母の気持ちが理解できたのである。

最近つらつら考えているのは、「人と人」の関係の有り方である。中国の『三国志』、塩野七生『ローマ人の時代』には人間関係で社会が成り立っている様子が生き生きと描かれている。これら、近代以前の人のあり方には義理人情のため自分の命を犠牲にする場面、自分の主義主張に命をかける場が多く見られる。近頃は資本至上の考え方が主流のようだが。 

坂東 真砂子『道祖土家の猿嫁   講談社文庫、は明治、大正・昭和を生きた旧家、村の生活を背景にして書かれている小説である。戦国時代から続く旧家・村の人々の営みが生と死を接点として近代の「国民国家」に翻弄されていく人々の姿、そして人々の関係の変化が鮮やかに描かれている。(休題;本のフルネーム忘れたので、アマゾンのサイトで覚えていた「猿嫁」のキーワードで検索すると、すぐ書名、著者がでてきました。便利!資料置くスペースの無い狭い家に住んでいる人には便利! 自宅に書庫がなくても済みます。) 

新聞に神戸地震、高齢者の孤独死XXX人という記事が載っていた。テレビでも取り上げられている。こうしてひっそりと死ぬ人も居れば、美化されて死ぬ人も居る。それぞれである。CNNのニュースでのイラク米軍戦士兵の扱い、国家の尊厳をもって扱われている。イラク人の死者はニュースにはならないが、近親者の嘆き悲しみの中で葬られているのであろう。テレビには嘆き悲しむイラク人、パレスチナ人の映像が流されている。豊かな日本では死者はひっそりと消えていく。無色透明な社会、どうもこのコントラストが気になる。 

今の世界があるべき姿なのか、過去に世界のあるべき姿があったのか、それともこれからあるべき世界を創り出さなくてはならないのか、頭の片隅にひっかかっている。そして、気がついたのは自分が日本の歴史に疎いことである。過去の世界を知らないのである。小中高で習った歴史しか知らない。巷に溢れている歴史物の情報、明治以降が多い。日本が「近代国民国家」を形成した後の歴史である。その前はどうだったのだろう? 興味が湧いてきて、図書館で民俗学関係の本をめくってみた。民俗学というと柳田國男を抜きにしては語れない、そして網野善彦とつづくようだ。民俗学とは昔の普通の人々の生活、毎日の営みからその時代を再生する学問である。村(その地域)に語り伝えられているお話、残っている古文書から想像たくましくして、その時代・地域の人々がどのような生活をしていたかを解き明かす学問である。数少ない資料から、数百年〜千年以上昔のことを想像するのである。推理小説を創るような楽しさがある学問である。面白そうである。ビジネスにはなりそうもないが。 

まだ、読み出したところなので自分なりに正しく理解しているかどうか自信はない。とりあえずの理解として、今の日本が国の形を成してきたのは15世紀位からという事実である。南北朝・室町幕府の頃である。中国では明王朝が成立した時代である。坂田聡、榎原雅治、稲葉継陽『村の戦争と平和、日本の中世12』中央公論新社、2002年、によると中世は大陸と日本列島の交流が盛んであり、北から(北に住んでいた)来た人々、南から(南に住んでいた)人々が、お互いに交易と闘争しながら営んでいた時代である。おおざっぱに、近畿以南と関東以北と二つの文化、さらに東北の文化、九州の人、四国の人、海に生きる人、山に生きる人、移動しながら生きる人、多様な人々が住んでいた。歴史を見れば明らかである。国の有り方は水が流れるように、その時々で変わっている。

そうして、おもうことは「国家」は生活の一部として必需品ではあるが、全部ではありえないということである。第二次世界大戦では国家の名のもとに国に個人の命を捧げるのが当然であった。今でも、国家は国民の命を操作できる力を持っている。近代の国民国家は「国民皆兵士」として動員できる。中世に於いては、戦闘員と非戦闘員は区別されていた。戦うのは戦争を職業としていた職業軍人であった(武士、戦士)。「国民皆兵士」となったのは、せいぜいこの200年位の歴史でしかでない。 

21世紀に「国民国家」がこのまま続くのか、私にはグローバリズムにより「国民国家」が変質する時代になるような予感がある。当然「国民国家」を維持したい人々も居る。グローバル化vs.現状維持の葛藤が21世紀の時代となりそうである。アメリカ大統領選挙の結果をみると、アメリカ国民は国家よりもイデオロギーを選んだ。ブッシュの就任演説は「自由」というイデオロギーを強く主張している。「自由」をキーワードとした帝国が成立していくのか、考える事が多い。 

国家が変質する渦中で人と人を結びつける力はなんであるか、考えていきたい。人は一人で生きていけないのだから。まずは自分の身の回りから始めよう。      

                                  以上