現代社会をどのように把握すればいいのか、という思索の対象として、批判的社会理論(ヘーゲル左派に由来。主にフランクフルト学派)とポスト構造主義(文化人類学、ハイデガー、ニーチェ他に由来)の文献に親しんでします。単純化して言えば、前者は近代という啓蒙のプロジェクトを継承しようとする立場、後者は近代(特に産業主義)の負の側面を分析しようとする立場です。親しめば親しむほど、両者の理論的有効性にひきこまれてしまうので、ついつい、両者を架橋したくなるのですが、様々な碩学や気鋭の研究者が試みながらも、なかなか手が出せないという難題なので、私ごときが挑むテーマではないのかもしれません。
ただ、ベルリンの壁崩壊後に、現代産業主義(新自由主義経済思想及びシステム)が、なんらの規制を受けることなく、グローバルに展開することの弊害に対しては、両者ともに警戒し、連帯しています。ヨーロッパ社会が温存している人間学的な価値を過度の市場主義から守ろうとしている点において、人間存在というものを市場価値の有用性で査定することへの危機感を共有していると言えましょう。我が国においては、いつのまにか、アメリカ流のスタイルに流されていってしまっているようですが。
その意味で、フランクフルト学派のハーバーマスと、ポスト構造主義系統のデリダは論敵の関係にありましたが、近年はグローバル産業主義に対しては連帯していました。ハーバーマスは、デリダ(昨年死去)について、次のようにコメントしています(朝日新聞、2004年11月18日夕刊)。
デリダの死をどう受け止めたか。
ハーバーマス「デリダが死にいたる病気にかかっていると診断されて以来、私は彼が死ぬまでの半年間ずっと電話でコンタクトをとっていた。シカゴで知らせを聞いた時はやはり早すぎると思った。彼とは論争したが、真摯な影響力のある哲学者で親友だった。彼の死は私には覚悟していた以上にこたえた。」
最後にどんな話をしたのか。
ハーバーマス「私たちはヨーロッパについて話した。ヨーロッパの国家が一緒になり、世界において一つの声になるような立場を獲得する必要があるという話だった。」
とはいえ、本書で述べられているアイデンティティの問題、異なるアイデンティティ間の調整にどのように対処していくかという問題については、両者の間にはまだ解消できない課題が残っています。端的に言えば、批判的社会理論の側が、人類に共通する価値の追求(普遍主義)を手離さないのに対し、ポスト構造主義系統の側は、アイデンティティの差異を肯定するという傾向が顕著となっています。
例によって前置きが長すぎました。
さて、本書は、標題にあるように、アイデンティティを異にする他者の存在とどのように関わっていくかということについての論考となっています。
前提となるのは、ハーバーマスのいうところの「ポスト形而上学的条件」、「世界観的多元主義社会」という、人類共通のビジョンを提示しがたい状況です。そのなかで、バラバラに分裂しかねない社会を連帯という視点でつなぎとめることができるかという課題に取り組んでいきます。
「他者」とは、「われわれ」とは異質とみなされる個人や集団を意味します。宗教的文化や生活様式を異とする他者との共存は困難な問題です。人類に共通の普遍性を求める立場はともすれば、西洋的な価値観の押し付け、多数派による少数派の同化に傾きがちです。
これに対してハーバーマスは「差異に敏感な普遍主義」という概念を提示します。他者を同化しようとする衝動が「包囲」であるのに対して、ハーバーマスは他者承認の現実的なあり方として「受容」という方法を唱えます。もちろん、「受容」は容易なものではなく、「受容」する側にも耐久・覚悟が求められます。しかしそれでもなお、社会は分裂のリスクを負う。
このことに対する、ハーバーマスの処方は2つあります。ひとつは、エスニックな集団的アイデンティティの価値を絶対的に擁護するのではなく相対化すること、2つめは「正義」による干渉です。たとえば、ドイツにおけるトルコ系住民については若い世代の権利について、エスニックな集団的要求に対して個人の権利を貫徹させるという方法です。
このような立場(西欧的普遍主義が顕著)に対しては、アイデンティティの差異を擁護する立場からは様々な反論がありえるわけで、ハーバーマスはこれらの反論について、彼が唱える「討議倫理」に基づいて丹念に真摯に反論を加えていきます。「異論に出会い、異論を再構成し、それに答えるというやり方」が面目躍如している観があります。
私個人としては、同質化・画一化衝動が強い我が国の文化に辟易しているせいか、人間学的な見地からは、「差異」に価値を求めるスタンスの方を重視しています。以前に比べれば個性というものに対する日本人の心性も変わってきているのかもしれませんが、日常の産業生活を貫徹するのは相も変わらぬ横並びを強制する風土、そして、その中での隠微な競争です。生のありかたについては、差異を尊重させていくべき状況にあると考えます。
ただ、政治・社会という場においては、際限なく分裂しかねない社会的アイデンティティ・集団的アイデンティティ間の抗争関係を調整していくためには、ハーバーマスの論理が最も適していると思います。集団対個人の関係において、「個人の権利」という地平を手放さないこと、その論理はどのようにして可能となるのかという難題に取り組んでいるところに鍵があるといえましょう。
なお、本書においては、「他者の受容」というテーマと密接に関係しながらも、他に2つのテーマが扱われています。1つは、先進国においてすら新たな「下層階級」を生み出しつつあるグローバル経済・世界市場の破壊的な威力に対する批判(ハーバーマスは超国家的な規制を求める)、2つめは、現代民主主義の今後の進路についての争点となっているところの、政治的リベラリズムと共同体主義(コミュニタリアニズム)の論争について、ハーバーマスなりの克服策を提起していることです。この2つの文脈から読んでみることも有意義であると思われます。ハーバーマスという思想家の柔軟性、真摯さに裏打ちされた柔軟性は、本当に貴重だと思います。 |