日本の外交暗号は解読されていた。1940年代にイギリスの対日情報収集活動を支えていたのは、通信傍受情報(当時はBJ情報と呼ばれた)であった。この時期、日本国内でのイギリスの情報収集活動は困難を極め、イギリスはBJ情報に頼らざるを得なかった。イギリス外務省の暗号解読組織、政府暗号学校(GC&CS)は1941年2月に日本の外交暗号・パープルの解読に成功し、毎日およそ5−10通のBJ情報を入手、チャーチル首相はBJ情報を「私の金の卵」と呼び重宝した。
本書は、近年公開された20世紀前半のイギリス情報関連史料をもとに1940年代のイギリスが、対日極東政策を推進する際に「インテリジェンス」をいかに活用して外交成果に結実させたのかを明らかにしている。国家におけるインテリジェンス活動とは主に、情報の収集と分析・評価そして情報の利用までの一連の過程の事で、主たる目的は国家の対外政策に寄与することである。
政府暗号学校(GC&CS)による日本の外交暗号解読の成功は、イギリスの対日政策にとって多大な貢献となった。イギリスは日本外交の意図を事前に得ることによって、自国に有利な外交政策の選択を可能とした。
インテリジェンスと外交政策が最も効果的に連携したのが1941年7月の南部仏印問題であった。日本軍による南部仏印進駐は、当時の極東情勢における最も劇的な出来事の1つであり、それは日英米関係の決定的な断絶を招く契機となった。しかし、イギリスはこの問題に際してさほど危機感を抱くには至らなかった。なぜならイギリスはBJ情報によって事前に察知していたからである。
イギリスは日本が実際に進駐する約1カ月前から日本の南進の情報を掴み、分析を行っていた。そしてその情報はイギリス政府で最大限に利用され、対日、対米政策に利用された。当初計画された日本の抑止には失敗したものの、アメリカを極東問題に深く介入させることに成功したのである。
イギリスのインテリジェンス活動は日本の反応を探り、日本との対決の過程で重要な役割を果たした。太平洋戦争に至る道のりは、従来説明されている日本の非妥協的態度とイギリスの無策というイメージよりも英米の計算された対日強硬的態度と日本の情勢判断の失敗といった色合いが強い。いわば、日本は戦争開始前からインテリジェンス活動の分野で完敗しており、状況を有利に導く力を失っていたと言える。一方、イギリスはインテリジェンス活動によって状況を先読みした判断を行い、情勢を自ら有利な方向へと導くことに成功したのである。イギリスのインテリジェンス活動こそが長年にわたって蓄積されたイギリス外交戦略の力の源泉であったと言えよう。
今日、我が国においても情報収集の重要性が説かれているが、多くの議論はインフォメーションとインテリジェンスの区別さえついていない。重要なのは情報収集だけではなく、集めたインフォメーションを分析、抽出し、政策決定者に報告、そしてそれが利用されるまでの全体のプロセスとしてのインテリジェンスなのである。
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