連載     「川物語(多摩川編その6)

 

                                                                           

                                       国際情報専攻 2期生 ・修了  村上恒夫

                                                                                      

 

 

 

 

 

万葉集の「東歌」に、多摩川を詠んだ歌がある。

 

「多摩川に さらすてづくり さらさらに なにそこのこの ここだかなしき」

 

 この歌の歌碑が東京都狛江市にある。江戸時代の文化二年(1805)に松平定信(17581829)の筆により建てられたが、文政十二年(1829)に多摩川の洪水で流出した。しかし、大正十一年(1922)に渋沢栄一らの力により、旧碑の拓本から再建された。

 

我子を愛しがる気持を詠んだものとされている。この歌の情景から、多摩川周辺は麻の原料を生産、機織することが主要産業であったことがうかがえる。はたして、周辺にはどのような人々が生活していたのだろうか。

 

この「狛江(コマエ)」の名の由来だが、関東に残る他の「高麗(コマ)」同様に渡来系の人々に由来する。周囲には狛江古墳群といわれる古墳が多く残る。

 

写真は都史跡「兜塚古墳」で、史跡指定は昭和五十年二月六日である。

 

東京都教育委員会によれば、「直径約三〇メートル、高さ約四メートルの円墳で、墳丘からは円筒埴輪片が出土しているが、本墳の内容はよくわかっていない。付近に存在する経塚古墳、白井塚古墳、亀塚古墳などとともに狛江古墳群を形成する。このうち、亀塚古墳からは高句麗的色彩の強い遺物が出土しており、帰化人系集団との関係が推測されている。本墳も亀塚古墳と同じ集団を背景として、五〜六世紀頃に築造されたものと考えられる。」と説明にある。

 

 数年前、韓国の古墳公園を訪れたときがある。日本の円墳と同じ物がそこに広がっていた。同じ何かを共有していると実感できた。

 

 当時の渡来人の多くは、政治難民が多かったと言う。国が滅亡した際の亡命王族なども渡ってきた。そして、多くのことを日本に伝え、交わって溶け込んでいった。島国と半島は切っても切れない深い縁がある。

 

 現在、日本と半島の関係は転換期を迎えつつある。北朝鮮とは外交交渉が行われ、日本では「冬ソナブーム」に代表される、韓流がもてはやされている。

 

 きな臭い交流は避けて、双方に意義のある交流がしたい。そして新しい刺激によりお互いが発展するべきだろう。