「僕が宝塚を愛でる理由(わけ)(3)」  

 

                                     国際情報専攻 4期生・修了 江口展之

 

 

 

 

電子マガジン第16号より、この「僕が宝塚を愛でる理由(わけ)」と題する連載を始めた。この動機は開始にあたり第16号に述べたが“宝塚歌劇を「商品」ないしはビジネス・モデルとして分析してみようか、という気持ちが突然に起きた”ことにある。

 

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今号は、もっと先に触れる予定にしていた植田紳爾氏(うえだしんじ:宝塚歌劇団前理事長・演出家)について、急遽、その功罪について記すことにした。同氏がこの秋の叙勲で「旭日小綬章」(注)を受章したのがその理由である。

 

 「中興の祖」という言葉がある。彼が紡ぎだした数々の作品への好き嫌いは別として、まずは演出家・植田紳爾氏が宝塚歌劇90年の歴史において、この言葉に該当する業績をあげていることは認めなければならない。いうまでもなく「ベルサイユのばら」(池田理代子原作:19748月初演)と「風と共に去りぬ」(マーガレット・ミッチェル原作:19773月初演)という、宝塚歌劇にとって、財産ともいうべきヒット・ミュージカルを生み出したことである。

 

この2作はそれぞれ観客数140万人(初演後2年間)、133万人(初演後1年間)という空前のヒットとなった作品であるが、このヒットが生まれる前の宝塚歌劇の状況は、現在では想像も出来ないほどの観客動員状態であった。それなりに観客動員があったものの、このヒットがなければ、宝塚歌劇団を凌駕する観客動員実績を持っていた時代があったにもかかわらず消滅した松竹歌劇団(SKD)や大阪松竹歌劇団(OSK)と同様の運命を辿っていた可能性は大である。

 

もっとも、この二大ヒットが宝塚歌劇団に大きな経営的利益をもたらしたかどうかについてはさほどでもないようである。筆者が知る今は鬼籍に入った某理事に1988年頃に聞いたおりには、その大ヒットの時期でも「(宝塚歌劇は)年間数億円の赤字であり、阪急ブレーブスと宝塚歌劇団は、言わばどら息子と金食い娘でした。」との話しを得て驚いたことを覚えている。

 

従い、この二大作品のヒットを生み出した、ということだけでは、植田氏を「中興の祖」と呼ぶには、いささか持ち上げすぎのそしりを免れないかも知れない。

 

ところが、この「金食い娘」は近年大きな変身を遂げ、現在では年間数億円の利益を上げる「孝行娘」に変身し、百貨店不振等のあおりでかなり困難な経営状況にある阪急電鉄の決算に貢献している。

 

これは歌劇団単体としての黒字化という阪急電鉄の経営上の要請が不可避となった状況の産物であるが、もとより、人を得なければ黒字化という結果を得ることは出来ない。(ちなみに、どら息子の方は、周知のとおり勘当(?)されてオリックス・ブレーブスに変わったが、以前として赤字体質であることは、最近の野球界の騒動の過程で何度も報道された。)

 

この孝行娘への変身成功の立役者こそ、一般には「ベルばらの植田」として知られている植田紳爾氏に他ならない。

 

1933年生まれの同氏は早稲田大学を卒業後、宝塚歌劇団へ演出助手として入り、1994年の宝塚クリエィティブアーツ(宝塚歌劇団の周辺事業を手がける阪急電鉄の子会社)の社長に就任するまでは、もとより演出一筋で劇団生活を送って来た。

 

その後、1996年にはそれまで創業者の小林一三の血を引く者ないしは制作経験のない阪急電鉄社員が電鉄内人事異動の一環として引き継き、歌劇団の演出家が就任することのなかった(例外:白井徹造氏)歌劇団理事長に就任すると共に阪急電鉄の取締役に登用され、宝塚歌劇団の独立採算化を任されて、前述のとおり、これを成功させた。(途中、1999年には阪急電鉄常務に栄進。今年2004年に理事長を辞任すると共に、経営陣からも身を引いて、現在は演出家に専念している。)

 

二大ヒット・ミュージカルの作・演出に加え、経営者として、植田氏は1994年から2004年の10年間を宝塚歌劇団の任をにない、結果、いはば「前垂れ経営」のオーナー企業を「近代企業」へ衣替えさせる作業を実行し、成功させた。

 

言葉を変えると“丁稚奉公から始めた律儀な現場上がりの番頭さんが、門前市をなしてるが儲けの出ない宝塚歌劇という老舗を立て直した「”太腕“繁盛記」”といった趣きである。

 

この二つの結果を客観的に評価するならば、同氏の作品ないしこの10年間の生徒行政(生徒=タカラジェンヌ)への毀誉褒貶はあるにせよ、同氏の事跡なくして、現在の宝塚は存在しえなかったことは認めざるを得ない。

 

先般、同氏は「花供養」(20049月 日生劇場)という作品を手がけた。この作品は宝塚歌劇には珍しく歌・踊りが一切ない和物のストレート・プレイで、現在の宝塚ファンには不評であったことは否めない事実であり、満席状態が常態と化している宝塚歌劇の公演としては観客動員も薄かった。しかし、筆者をはじめとする「ベルサイユのばら」以前の宝塚を知る者には、おおむね好評であった。なぜなら、力量のある少数の演者が滑舌あざやかに、しっとりとした芝居を演じてくれたからである。

 

たしかに現在、宝塚は華やいでおり、チケット入手も困難な状況が続いている。しかしこの1974年からの30年は「うたかたの夢」の中であり、なんらかのきっかけで観客が夢から醒めて「ベルばら」以前のような肌寒い観客動員の時代が再現しないとは限らない。

 

そして、そのようなことが起きたときに、それを再度立ち直すために必要なものは、「職人としての役者」と「観客を魅了する作品」の組み合わせ以外のほかには有り得ない。

 

この組み合わせを立ち上げる力量のある人材を育てるためには、目先の楽しさを求める観客には不評であっても、伝えるべき宝塚のノウ・ハウを伝える場を作ることは宝塚歌劇が永遠に続くためには不可避な作業である。このことは、ひとり宝塚歌劇に限らず、一般企業にも当てはまる。 

 

著者にとって質的には必ずしも肌合いの良い作品を提供してくれない演出家である同氏だが、このあえてヒール役を引き受けてでも将来の人材を育成する生き方には、エールを送りたい。 なぜなら、「僕が宝塚を愛でる」ためには、宝塚歌劇が続いてくれることが必須条件だからである。

                              (次回へ続く)

 

 

注:平成16年度より、従前の叙勲制度が変更され、勲○等という格付けが廃止され、勲章自体の呼称により褒章内容を明らかにすることになった。詳しくはhttp://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/index.html 参照