「東武練馬まるとし物語 第二部」
国際情報専攻 3期生・修了 若山 太郎
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その五 「家族の力」
夏の終わり、家族で北海道に出掛けた。道南の函館や登別の温泉に宿泊、レンタカーを使い、その周辺を観光した。
18年間ペーパードライバーだった妻が教習所で講習を受け、再び車を運転するようになって3か月目のことである。
この旅行は高円寺阿波踊りの4日前で、子供たちが参加する連とは別の地元の連から、踊り終わってからの打ち上げ用にと、カツサンド105人前の注文をいただいていた。
僕は、そのカツの下ごしらえの為、旅行に出発する早朝30分前まで、店でたった一人、その作業に取り組んでいた。
その日、店のテレビでは、生中継で、アテネオリンピック女子レスリング決勝のメダルラッシュの映像が流れていた。その実況を聞きつつ、仕込みの肉に自然と気合が入る。結局、一睡もせずに出発することになった。
飛行機の中で爆睡したものの、気分はフラフラだった。そこで、函館空港からのレンタカーでの運転は妻に任せることになった。
長距離の運転に不慣れな妻は、ドキドキと緊張していたようだ。
流れに乗り切れずに、マイペースで慎重な運転していた妻にとって、道の広い北海道を運転することは、絶好の機会だと思う。
観光シーズンのレンタカーの営業所は大忙しだった。そこで配車された車が普段乗っているタイプとは違うギアだった。
さらに輪をかけて焦った妻は、「不安だから」と、かなり迷惑そうな配置する係の方に頼み、車を代えてもらう1幕も。
何とか無事に車をスタートさせ、トラピスチヌ修道院、五稜郭をまわった。
一車線に車が二台走っていることがあり、妻が車線の流れなどに慣れるまで、「あれっ」と戸惑うことや、いつもの癖が出ていたので「もっとスピードを出した方がスムーズになるよ」と僕にアドバイスを受けることもあった。
車についているカーナビの案内も分かりやすく、迷わなかった。徐々に雰囲気にも慣れ始め、リラックスムードで楽しいドライブとなってきた。
五稜郭は、北方防備の目的で造られた、日本初のフランス築城方式の星型要塞。幕軍と官軍の最後の戦いである箱館戦争の舞台となったことでも有名である。実際歩いてみると、広々として、綺麗な所であった。
僕はこの時、また睡魔に襲われ、ベンチで睡眠をとった。妻や子供たちは歩きまわって楽しんでいたようだ。
今まで休みなく働いた自分へのご褒美として、また、この3日間の旅行をすることは、妻や子供たちへの家族サービスのためでもある。
函館は、研究科の同期で、友人である落合さんの住んでいる所である。
五稜郭タワーでは、落合さんの昼休みの、わずかな時間に再会できた。
以前、店で彼女の修士論文をみせてもらった。函館をサハリン沖の油田開発の関連ビジネスで経済活性化策を論じたその内容にとても興味があり、機会があれば、1度は訪れてみたいと思っていた。
落合さんは、現在地元のFMのラジオ番組でDJとしても活躍されている。今年の4月には、番組を録音されたテープを直接送ってくれた。
大学院での研究成果をさりげなく社会に発信、実践しているその姿を耳にし、研究科の同期として、何よりうれしく思った。
夜は世界三大夜景といわれる函館の夜景もくっきりとみえて満足した。標高334m、山頂へはロープウェイを使う。さすがに展望台からの夜景は世界一との評価を受けているだけはあった。
妻とは子供たちが生まれる前旅行した際に、香港の夜景を見たことがある。天候の影響もあるとはいえ、僕にとって函館の夜景が優っていた。
一晩ぐっすりと眠り、2日目からは、僕を中心に交代で運転をすることになった。大自然の大沼国定公園で散策、ボートをこいで、ゆったりと時を過ごす。
登別から支笏湖までの道のりは、高速道路を使わずに、山沿いの国道を通った。
ほとんどすれ違う車もなく、美しい風景が続く。動物注意の標識が何本もあり、実際キタキツネが日向ぼっこをしているのを、見かけたりした。
支笏湖もとても美しく、周りにゴチャゴチャした建物がなく、のんびりとしていた。
自分たちのペースで無理なく移動できるので、レンタカーを借りて旅行した甲斐があったと、つくづく感じた。
子供たちが喜ぶ、動物とのふれあいもあった。
昭和新山の熊牧場では、小熊や大きな熊がいくつもの檻の中にいた。次女は、人間が檻に入って熊に囲まれると思い込んでいたようだ。
子供たちが餌のクッキーを檻の外から投げ入れると、熊がキャッチボールをする態勢となり、叫び声を出す。
上手く自分のお気に入りの熊に餌が届く、届かなかったと、子供も熊も興奮していた。
空港近くのノーザンホースパークでは、調教師の方がついて、家族全員が馬に乗った。
特に三女は、馬が見られることに大喜び。目の前を馬車が横切った時、自然の摂理で排便をしていったことは、かなりの衝撃だったらしく、目を丸くしていた。
この旅行で妻は、車の運転に対して自信がついたようだ。今では、おやじさんがいない時に、雨でも安心して配達してくれている。店にとって何よりの成果だった。
旅行の翌日、昨年に続き3人の子供たちが、第48回高円寺阿波踊りに参加した。
僕はというと、夜の約束の時間に間に合うように、朝早くから再び肉の仕込みからパンの準備を、店をやりながら、最終的には無事用意することが出来た。力を入れただけに、カツサンドは好評だったようだ。
長女が夏休みの出来事で、阿波踊りのこと(自分の参加した連・きたまちじゃじゃ馬連が、杉並区長賞をもらえたこと)をクラスのみんなの前でお話したら、担任の先生が、クラスだよりで、そのことにふれてくれたという。
うれしいことがまた1つ。義妹が無事二人目の赤ちゃんを出産したと連絡があった。元気な女の子だ。
義妹は、当初逆子だと、不安や悩みを抱えていた。病院の先生と話し合って、帝王切開より自然分娩を優先する方針でその日を迎えた。僕たち家族は、心配することしかできなかった。
出産の2日前、おやじさん夫婦で、直接義妹を訪ねた。その時に、周りに気兼ねして言えず、なかなか実現しなかった、神社をお参りに行くことができたらしい。家族は、顔を合わすだけでも、力になるものだ。
産後、落ち着いてから、義妹は里帰りをした。前回の物語でも書いたように、年子である。僕の子供たちはそれぞれ2歳違い。
滞在中の20日ほど、年子の子育ての大変さをかいま見た。深夜僕のいる2階まで泣き声が聞こえた。
上の子と赤ちゃんのどちらかが泣いているか、同時に泣き始めるかで、両方一度に抱っこするような大わらわ。まだ上の子といっても1歳2カ月、赤ちゃんに嫉妬することもある。逆に、義妹が赤ちゃんを抱っこしていると、こわれものに触るよう寄り添っている。こんなに小さくても我慢するんだなぁと皆で感心した。
妻もその姿を昼夜問わず見るにつけ、3人同時に泣かれて切ない思いをした覚えがあると言っていた。
それはお風呂の時である。長女が4歳、次女が2歳、三女が生まれたばかりの頃。眠くなったり、機嫌が悪かったり、子供の1人が泣き出すと次々連鎖して泣き出す。それがお風呂だから響いて、泣き声の大音響、自分も泣きたくなるような思いもしたそうだ。
義妹の場合、生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこして上の子にミルクをあげる。オムツやミルクも2人分必要になり、今だけを見ると、一度に濃縮された子育て期間が来ている感じだった。
実家だから食事や洗濯、掃除、そのどれを1つとっても、気を使わず、気軽に義母や妻に頼めることは、育児には大きなことのようだ。
赤ちゃんがいると、家が明るくなる。僕の子供たちも、赤ちゃんを抱っこした。学校や幼稚園から帰ると、真っ先に上の子と一緒に遊んであげて、少しでも義妹を助けようとしているらしい。
おやじさんも、朝、上の子を散歩に連れ出していた。僕もほんの少しだけ、店に行く前の短い時間、遊んであげたりもした。家族全員でのバックアップ。
義母や妻の気使いは相当なものでだった。特に義母は、昼に夜にと頑張りすぎたためか、義妹が家に戻った何日かは、ぐったりとしていた。
すっかり実家で居心地がよくなった義妹は、家に戻ったらどんな風かと案じていた。同居のよさで、上の子はすでに向こうのお母さんになついており、助かっているらしい。何かと外に連れ出してくれる。旦那さんも割と早く帰宅するので、お風呂も入れてもらえるそうだ。
9月5日、店近くの氷川神社祭礼の神輿巡行が行われた。2年に1度のこと、今まで経験がない僕は、今年こそ参加したいと考えていた。
祭礼の数日前、経験のある、駅前の花屋さんが食事に来られた際、何気なくその話をすると、ハッピがすぐに届いた。足袋やさらしなど自分で用意するものがあると、アドバイスもいただいた。
神輿を担ぐ場合、ハッピの下、肩の部分に、タオルを縫いつけておかないと、皮がむけてしまうそうだ。担がないでぶらさがる人もいるらしく、僕はどちらかというと、背が高い方なので、注意するように言われた。
当日は、朝から雨模様。スタートの時間に近づくと、雨脚は土砂降りとなり、皆で手分けをして、神輿にビニールをかぶせた。
この日は僕の子供たちも皆、小神輿を担ぐようにと参加してもらった。
午後1時のスタート時には、不思議と雨が上がり、きたまち商店街中程にある浅間神社から地域の子供たちが引っ張る山車を先頭に、大中小三機のお神輿が街へと出発した。
小神輿は小学校低学年の子供たちを中心に、中神輿は小学校高学年の子供たち。そして、一番大きな神輿は、町会・商店街・自衛隊官舎・地域の方々によって担ぎ出された。
「わっしょい!わっしょい!」「カーン!カーン!」威勢のいい声と拍子木の音を響かせながら、神輿は街を練り歩いた。
神社から、僕の店の前までは、「オリャ!」「オリャ!」という、独特のみこしを担ぐ乗りに、必死について行き、何とか担ぎきることができた。
神輿は阿波踊りの時とは違い、沿道の見物人はそれほど多くはない。見ると言うより、担ぐものではないかと思い、今回担ぎ手になった。
神輿は商店街を一通り進み、真ん中で1度雨脚が激しくなり、一時中断、担ぎ手は一斉に雨宿りをした。その後、自衛隊の官舎の中へと入る。官舎を抜けると神輿はもう一度商店街の方へと進み、この頃から見物人がかなり増えてきた。
1度神社の前を通り過ぎて、駅前に向かい、再び宮入れのために浅間神社に向かう。残り少なくなった神輿に、みんな群がった。
午後4時、予定通り浅間神社にお神輿が還ってきた。「ヨー!シャンシャンシャン....」三本締めで無事に今年の神輿巡行が終わった。
10月に入ると、僕にはもう1つやるべきことがあった。
それは、11月14日に行なわれる「第23回ねりま光が丘ロードレース」の20キロの種目にエントリーし、そのための練習をすることである。
制限時間は2時間。完走をするためには、遅くとも1ヶ月は練習を重ねないと無理だと考えていた。
当日はトラックを2周、光が丘公園内のジョギングコースを1周、そして外周を5周。練習では、日々店が忙しく、疲れて家に戻ってすぐ寝てしまう日も多く、深夜、公園外周を1周から始め、何日かおきに走った。
走ることを重ねていくと、距離が段々と短く感じた。練習を始めてから一週間後、距離を倍にして、2周、翌週を3周、当日一週間前には、4周まで走ることができた。
ただ、あまり無理すると体を壊す危険もあり、当日は気分だけでもゆっくりと、あせらず、完走を目標にしたいと思っていた。
当日。天候は曇、やや肌寒いくらいの陽気だった。
仕事を終えてからの深夜、事前の練習量としては、距離はトータルで20周弱まで走ったことになる。1周するタイムも3分ほど短縮できるようになっていた。いつものペースを守れば、ゴールが見えると思った。
朝、スタート時の僕が走っている姿を、子供たち3人に見てもらえればと考えていた。
逆に、走っている姿を見てもらうことで、子供たちへ、何事にもあきらめない気持ちが伝わるのでは、という願いを心に秘めて。
トラックではランナーの真中の位置で飛ばした。陸上経験があるわけでもない僕の実力では、制限時間ぎりぎりの完走が目標であり、行けるところまで行くつもりだった。
子供たちの姿が見えなくなると、途端に息が上がってきた。しかし、途中で投げ出すわけには行かない。
仕事にしろ、研究にしろ、そして走ることも、地道な一歩が、明日につながるのだ。
結果としては、何とか制限時間に間に合い、ゴールすることができた。
完走できたことで、少しずつ体力がついてきたと思える。来年フルマラソンへの初チャレンジが更なる目標である。とにかく、これで一区切りついた。
店についてとりあげることにする。お話をいただいたことを2つ。
9月29日から11月30日まで、練馬区産業経済部商工観光課が主体となって練馬の散歩道を利用した、「練馬区観光ポイント巡り」のスタンプラリーが実施されていた。
練馬区初めての取り組み、今回は2つのコースでスタンプラリーをやっていて、「まるとし」もこのポイント巡りでは、『ねりまの散歩道・城北中央公園コース』地域のサービス協力店として、参加した。スタンプ設置店は、商店街で1店舗、サービス協力店は3店舗である。
この城北中央公園コースでは、スタンプ設置店が10店舗、サービス協力店が26店舗あった。
ガイドブックがよく出来ていて、練馬の名木のあるところ・練馬の名品が買えるお店の場所もわかりやすいだけでなく、散歩ルートの見所や、散歩の途中で寄れる、スタンプやサービス協力店のある店なども掲載されていた。
「まるとし」では、このガイドブックをご持参いただいた方には、ソフトドリンクもしくはグラスビール1杯のサービスをした。
スタンプを4つ集めると、ホテルでのお食事招待券や豊島園の招待券、区内共通商品券など抽選で当たる。
「まるとし」にとって、お客様も増えることでもあり、また、街歩きで地域を知る機会が増えることは、歓迎すべきよい企画であると思う。
また、10月に取材を受け、11月17日発売のマガジンハウス発行の雑誌「HANAKO」11月24日812号に、「まるとし」のことが掲載された。
取材前、ライターの方がお忍びで食事をして下さった時、美味しかったからとのお話だった。
「老舗の味は、胃もたれしない軽い仕上がり。 サックリ歯触りのいい衣に、肉のうまみがしみ出るとんかつ。おいしさの秘密は青森の健康豚と生パン粉、数種ブレンドの揚げ油に愛情! 先代の技を守りつつ、新味に挑戦する3代目に常連客もエールを送る。」
「老若男女、新旧店舗混在で活気づくトウネリ」というテーマの記事で、商店街でも他に何店舗か取り上げられた。
いろんなお話をいただいて、とてもありがたい気持ちである。
以下、次号。
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