未来のパンセ (5)
 

   

思考する犬(特に本文とは関係ありません)
 

■ ケンタ・オス6歳・体重32キロ・獰猛だが涙もろい
■ 常に何かを考えている。情報が足りないと嘆いている。

                            後期課程・国際情報分野   橋本信彦   

   

 未来のパンセなどという、少々気恥ずかしいタイトルつけたのには、じつはそれなりの意味があります。この大学院電子マガジンへの投稿は今回を含めて5回、今回この稿を進めるにあたり少し振りかえってみました。その結果いくつか点で、ひょっとしたら説明が不十分ではないのか、あるいは記述が独りよがりになっているのではなどと、これまた独りよがりかも知れませんが感じた次第です。そしてその一つがタイトルについてでした。

前回までの連載では、まったくそのことに触れていません。今回、この先論を進める為にも、あるいは数少ない読者に勇気を持って読み進んでもらう為にも、その意図とするところを説明すべきでしょう。

 この数年、私たちの社会は大きな変動を経験しています。

少し説明が必要ですね、ここで述べる社会の大きな変動とは、情報・社会空間からの視点です。情報の流れ、つまり通信をも含む情報社会空間の変貌による、通信手段・コミニュケーション・メディア・アーカイブ他、それぞれについての利用を含むインフラの整備、そしてインフラ環境の整備変化による利用の多様化、そして多様化による生活の様々な変化です。私たちはそれら変化に、どのように自己の再構築、あるいは過去から離脱し新たな構築を成して、変化する社会に対応すべきなのでしょう。

ただ無意識に時代の流れに身を任せていたとしても、あるいは、少しきつい表現を許してもらえるならば、多くの人々の思考停止状態が続いていたとしても、近時における社会の変動は、いえ少々の振動ぐらいは、きっと感じているはずです。もっと違うかたちで表現するならば、我々が意識せず、そして思考などしなくとも社会は勝手に変化をしていきます。私たちのほとんどの意識は、つねに後追いでもあります。

この変化の程度が、つまり早さや大きさや規模が、上述の視点にから考えるに、この数年に限って通常とは違うダイナミックな変化となっているようです。

 よくドッグイヤーなどという言葉が使われます。物事の進歩進展の速さとしてです。最近のIT(インフォメーションテクノロジー)の進歩進展を表現するに、その進展の早さから、表現としてそれが適当であると思われているからです。犬の成長の速さと同様、情報技術の進展を伴う社会の変化の度合いは、それほどにその速度が早いということなのでしょう。

 さて私たちは既に、IT社会と称される未来社会へその一歩を踏み出しています。そして当然のこと、我々自身がその未来の一部を形成しつつあります。ここで述べる未来社会とは、SF小説において表現される特異奇抜な、あるいは理解の範囲を超えた、想像の中だけに存在するといった、大袈裟なSF未来社会とは違います。

未来社会とは私たちが生活する現実社会の、ほんのちょっと先の、それこそ手の届くところに見える、単なる現実社会の延長に過ぎないといっても過言ではありません。つまりそこは、過去・現在・未来の間をつなぐ一本道の、ほんの少し先にある道です。ただそれだけに過ぎません。私たちはその一本道を如何に快適に、安全に、そして安い料金で走行することができるか、つまり私たちが出来得る環境の整備を、如何に快適に便利に成せるか、あるいはそれらの環境を、如何に多くの民が、つまり私たちが共有できるか、それがこのテーマの始まりなのです。前置きがだいぶ長くなりました。以上がこのタイトルの意図するところです。

 論を進めます。過去・現在・未来と続く同じ一本道の少し先を歩むのに、では何が重要なのでしょう、一体何が必要と言うのでしょうか。答えはわりあい単純です。これまでに何度か論述してきました。それは常日頃から意識し、そして思考することに他ならないのです。

しかしながら変化を変化として意識すること、あるいは社会の表層現象を常日頃、毎度毎度、意識し思考するなどということは、実を言うとそれほど単純ではありません。容易くないのです。言葉で、簡単に単純と表現をしても、それこそ注意深く、ある一定の努力を持たなければ難しいと思われます。なぜなら生活環境の変化を経験として蓄積し、加工し、さらにはその成果を自らの行為の基準とするには、当然のことア・プリオリな認識では不可能だからです。そこには学習をし、そのうえでその知識を規則化するという、能動的な作業が強く求められます。

 未来のパンセとは、意識し思考する際に必要な、方法論における一つのヒントです。そう考えていただければと思います。ただし意識し思考するといっても、あまり真正面に、生真面目に、片方の眉を45度上方に持ち上げ、口をへの字にしてまで気難しく考える必要はありません。少々の努力の継続をお許しいただき、容認していただければ、それこそ少し気取って、苦く熱いコーヒーを片手に、50年代のアメリカンポップスを聴きながらでもそれは充分でしょう。いえ、むしろそうするべきであると思います。重要なことは唯一つ、決して社会に、組織に、国家に、ただ盲目的に身を委ねてはいけないということです。

身を委ねることは確かに楽です。けれども、そこには生きる意味が見出せないと同時に、その行為自体が、無意識に、国家や社会の誤った方向への舵取りを助長させる結果ともなり得ることを知るべきです。

なぜそうなるのでしょうか。こう考えてみたらいかがでしょう。生きることと生かされることとは、それが対極であるばかりでなく、盲目的な依拠は、それこそ為政者の横暴を極限まで許容することにつながると。

いかがですか、どうでしょう。「対象を判断するに易ければ管理も易し」私たちがその落とし穴に落ちこんでからでは、そのような状況になっていることに気付いたときはもう遅いのです。

 では思考することの意味を、その方法論をここですこし考えてみることにいたします。先ほど例として出しました。過去・現在・未来へと続く一本道を使いましょう。みなさん、走りやすい快適な道路とは、いったいどのようなものとお考えですか。少し考えて、そう、思考してみてください。いくつも思い浮かんできませんか。例えば以下に列挙した項目などはいかがでしょう。

 

1 道路の道幅が広い。

2 舗装されている。

3 進路変更が容易い。

4 追い越し車線がある。

5 通行量が適度である。

6 進路標識がみやすい。

7 走行する車が皆法規を遵守している。

 

 どうです。なんだか意味深長ですね。では上記1から7を、私たちの情報通信環境が格段に進歩した社会に置き換えるとどのように表現できるでしょう。それぞれについて次回から検証をしてみたいと思います。