『日本人画家滞欧アルバム1922』 

   Eアンドレ・ロートとの出逢い−後−

 

                            文化情報専攻 3期生・修了  戸村 知子

   


 黒田重太郎の作品を、もしも今ここで年代順に並べてお見せできるなら、おそらく多くの人はその作風が明らかに変化していったことに気づくだろう。まったく、作品を前にすると、同一人物が描いたのかと思うほどである。が、しかしそれはまた、黒田が常に何らかの影響を大きく受けているということに他ならない。機会があれば、ぜひ作品の前に立たれることをおすすめしたい。

 

 黒田がロートのアカデミィに通い始めてから其処を去るまでの間、幾枚もの作品が仕上げられたことでしょう。ただその中でも、<一修道僧の像><エスカール(後の「港の女」)><水浴の女>の3作は、彼の第二次滞欧作を代表するものといえます。

 

  ・・・・それから一月ばかりして「一脩道僧の像」を描いて、はじめてフォルムが掴めたと云つて喜んでくれ、「エスカール」を描いて「君のこれ迄の傑作だ」と云はれ、「水浴の女」で最も成功の域に達したと褒めてくれました。但しこの時私はもうロオトのアカデミィを去る時分になっていたのです。   「ロオトの人と芸術」

 

  ・・・私は一旦信じて師に就いた以上、少なくも教えを受けている間は、その教訓に徹するために、できるだけ自分勝手な解釈や、やり方を慎んだ。「一修道僧の像」「港の女」「水浴の女」等、当時の作が証するように、忠実にロートの作風を受け入れていた。しかし私はこれをもって生涯終始する考えはなかった。   「関西の洋画壇」

 

つまり、それらの作品はあくまでも黒田がロートの教えを自分の中に取り込む過程のもの、後年振り返ってみれば、独自の作風を確立させるための通過点であったようです。

 

 そしてロートもまたアカデミィに学びにくる人々に対して、いつまでも彼の作風に忠実でいることを望んではいなかったのです。

 

  いよいよ日本へ帰る事が決まつて、その事をロートに告げますと、「さうか、それは大変名残惜しい、だが君も私から取り入れるだけのものは既に取り入れた筈だ。この点では私も心残りでない。この上は何処に居ても君自身が君を教へねばならぬ時になつているのだ。これは云ふ迄もなく私と一所にやつている時よりむづかしい。併し君はこれもやり通さねばならぬ」と云ひました。手っ取り早く云へば何時迄も俺の真似をしていてはいけないと云つたのらしいです。   「ロオトの人と芸術」

 

 また、彼は黒田の帰国後の制作に対しても関心を示し、日本で制作した作品の写真を送るように頼むのでした。― 黒田が写真を送ると、ロートから感想が返ってくる。 ― 書簡の往復があってかどうかは定かではありませんが、1924年にロートは日本においてアスランやビッシェールと共に二科会の在外画家会員に推挙されました。その前年、つまり黒田が帰国した年の19239月に記念すべき第10回二科展が東京で開催されて、仏蘭西現代画家諸作の特別陳列も企画されました。それら作品群の中にすでにロートのものも含まれ、十数点展示されていたようです。

しかし、東京・上野の会場は初日に大震災に見舞われ急遽閉鎖となりました。会場にいた黒田はじめ小出楢重、国枝金三らは、仏蘭西からの預かり作品に気を配りつつ、他の諸対応を一段落させて、やっとのこと救援物資を積んできた郵便船の帰航に便乗して大阪へ戻るのですが、その途中で大阪・京都など、東京以外での地域で第10回二科展を開催する案が持ち上がり、大阪へ到着するやいなやすぐに朝日新聞社へ相談に行きました。その成果あって無事に開催を実現させることができたのでした。当時の図録の序文には次のように記されています。

 

  日本最近の美術界に著しく勃興して来たアンデパンダンの潮流に先駆して、二科会が起されたのは実に十年以前であった。この間新しい機運を誘導するために、二科会が奇興した所を考へて見るとその効績必ずしも鮮少なものであるまい。この思ひ出多き第十回の誕辰を迎へるに当って、二科会の企画した所は一にして止まらなかった現代仏蘭西の独立派芸術の各傾向を代表する所のマチス・ピカソ・デュフィ・ブラック・ロオト等錚々たる人々に嘱して、その人等の光彩ある作品を一堂の下に集めたのもそれである。これに依て吾人は、現在世界の美術界を横断して流れる、新しい精神と呼吸を合わせる事が出来る。また従来二科会にその作品を発表して認められていた所の気鋭の作家達を新たに挙げ会員としたのもそれである。これに依って此団体は日と共に新たな地歩を占めやうとする日本の新しい芸術に、貢献する所であらうと考へたに外ならなかった。斯くてすべては準備せられ上野の秋のセエゾンに魁して、二科会がその新しい陣容を以って公衆の前にあらはれたのは九月一日であつた。然も開催僅かに半日、夫の帝都をはじめ、関東一帯を襲った大地震の為に、中止の止むなきに至つたのであるが、玆に紹介された日本及び佛国の作家の尊敬す可き努力をして、空しく葬られ了せしむる事は独り二科会其者のみならず、広く日本の新しき文運のために甚だ悲しむ可き事としなければならない。幸にして災厄を免れた殆ど全部の作品を挙げて関西に移し、万難を排して先づ大阪に開会の運びとするに至つたのも偏に此微衷の然らしむる所である。

 

 日本国内で一般市民が同時代の仏蘭西国の画家の作品を観ることができるようになったのは、日本洋画史1920年代の特筆すべきことと言えるでしょう。さらに、在外会員として外国人画家を会員に推挙した当時の二科会の意気込みがうかがえます。この第10回二科展は、大阪会場の後に京都と福岡で開催されました。

 

 黒田とロートの親交の軌跡をたどると、そこにはおのずと日本洋画史における一つの潮流を見出すことができます。一人黒田のみならず、自国の芸術興隆に情熱をそそぐ人々が集う街、1922年巴里はそんな横顔も持っているのです。黒田はロートから学びえたことを晩年まで忘れることはありませんでした。