≪六花の窓から見た中国≫ 第1回

 

                                              

                                 国際情報専攻 4期生・修了 諏訪 一幸

                                                                                      

 

 

 

 

 

 以前、本マガジンで「北京便り」を執筆していましたが、帰国に伴い本年3月発行の第8回をもって終了した経緯があります。その後、活動拠点を札幌に移しました。基盤整備も一応整ったので、引き続き、中国のこと、日本と中国のことを考えていきたいと思います。

 

 初回の今回は、既に旧聞に属しますが7月から8月にかけて中国各地で行われたサッカーのアジア・カップをめぐる「中国人の反日感情」を取り上げます。

 

 日中決戦が行われた8月7日の晩、私は偶然にも北京にいました。5日に成田から入ったのですが、日本チームの試合地となった重慶や済南での「反日感情の爆発」を取り上げたわが国の報道に数多く接していたため、「北京もそうなのだろうか」と多少不安な気持ちで、半年振りのかの地に降り立ちました。ところが、これが全くの杞憂だったことに気づくのに、そう時間はかかりませんでした。と言うのも、北京の街は、いつも通り、静かで、落ち着いていたからです。「反日に渦巻く中国」は一体どこにあるのだろうと。

 

 競技場内での騒ぎは確かにありました。また、観戦に訪れた日本大使館員の車のガラスが敗戦に激昂した中国人サポーターに割られるといった、残念な事件も起きました。これは、弁解の余地のないものです。ただ、誤解を恐れずに言うと、こうした行為が、ますます過激化する昨今の中国人サポーターの言行と比較した時、特に過激だったと結論付けるのは、ちょっと無理があるような気もします。「判官びいきは当然。それに、日本が勝ち上がったら中国は負けるに決まっているじゃないか」。果たせるかな、日本は勝ちました。北京にいる間、私は何回かタクシーに乗りましたが、運転手の見解はほぼ一致していました。どこの国でもタクシードライバーは世相を見るに長じていると言いますし、中国にもそれはあてはまると思います。彼らの発言に偽りはないのだろうと、ほっとした次第です。

 

 「中国人(「一部の中国人サポーター」ではありません)の反日感情が噴出した」背景について、私が日本を離れる前にわが国メディアで主流を占めていたのは次のような論調・分析でした。「反日は愛国主義教育強化と表裏一体」、「民衆にとっては不満のはけ口、当局もこれを利用」。一方、中国側からは、「日本の一部メディアはごく少数の者が行った行為を大げさに騒ぎたて、政治と関連付けている」、「歴史問題に対する日本の態度こそが問題」との反論がなされました。日中関係はサッカーをめぐって悪循環に陥っていたのです。

 

 根拠のない不安感を抱いたのは、私の情況認識の甘さによるところ大と言わざるをえません。しかし、責任転嫁するつもりは毛頭ないのですが、日中両報道機関の言論には度を過ぎた感情論(つまり、相手に対する感情的批判)も少なくありませんでした。わが国を代表する某紙は私が北京に到着した日の第一面で、「自分でまいた種、中国政府には性根を入れて刈り取りに悩み苦しんでもらおう」とまで述べていたのです。

 

 私はここで、中国メディアの現状、そして、メディアに対する共産党のかかわり方について言及しておきたいと思います。なぜなら、このような問題に対する理解を深めることによって、先に述べた如き感情論の出現はかなりの程度避けることができると考えるからです。

 

 中国のメディア事情に関して我々が抱きやすい誤解が2つあります。

 

 第一に、「中国の主要メディアに見られる論調は党や政府の公式見解である」との認識は、文革時代ならいざ知らず、改革開放の現在にあっては、正確さを欠きます。勿論、共産党の一党体制が依然として有効に機能している中国の場合、報道内容の大枠は党の方針に従って厳しく設定されています。党の代弁者であることが期待されている中国の報道機関は、そのため、各自の報道内容を時々の大枠に収めるよう努力する必要があります。この努力を怠る、或いは失敗すると、深刻なケースにおいては、報道機関の場合は閉鎖、関係者の場合は解雇という厳しい現実が待ち構えています。ところが、現在ではこのような従来からの原則に加え、新しい変数が存在しています。それは、市場経済です。日本以上にシビアな弱肉強食の世界、利益追求主義です。では、こうした社会状況のもと、個々の報道機関及び記者・編集者は一体どのような行為に出るのでしょうか。簡単です、選択肢は一つしかありません。「与えられた枠を逸脱するかしないかのギリギリのラインで、最大限センセーショナルな報道を行い、販路を拡大する」というのがその統一回答です。

 

 「中国においてメディアに現れる言論は事前検閲を受けている」というのも誤解です。中国の言論統制は現在においても厳しく、中央宣伝部という組織がその大元締めとなっています。ただし、宣伝部の任務は報道方針及び内容の大枠や原則を提示し、それを遵守するよう各言論機関に求めることにあるのであって、個々の主張に対する事前検閲を行っているわけではありません。個々の主張に対する責任はあくまでも、そのような主張を行った言論機関に属するもので、従って、逸脱行為があったと判断された場合に党サイドが行う処分も、事前ではなく、事後処理となるのです。店頭に並んだ書籍を慌てて回収するという例は枚挙にいとまがありません。

 

 次に、利益追求の道を走り始めた中国メディアと共産党の関係とは一体どのようなものなのでしょうか。今回の問題意識に基づけば、党による言論統制の有効性が確実に低下してきたということに他なりません。「メディアは党の代弁者」という大原則は貫徹し続けたいものの、自らが指導してきた改革開放、市場経済化の大きな流れの中で、それがもはや不可能になってきました。中国の権力者はいまや、自己矛盾の中でもがき続けているのです。日中関係を例にあげるなら、「主流は友好的なものである」という基本方針から外れる言論は統制したいが、完全には統制できないといった事態が生じているのです。このような認識から私は、極めて慎重な表現ながらも中国外交部が一部サポーターの過激な行為を批判したこと、そして、共産党中央機関紙である『人民日報』が決戦当日の紙面で「主催者としての度量を示そう」と呼びかけたことは、中国当局としてはできる限りにおいて最大限の努力を行ったのだと考えています。実態はよく分かりませんが、ネット上での過激な言論の取り締まりも行われたはずです。

 

 それでは、中国側に見られる問題点とはどのようなものなのでしょうか。第一に、金儲け第一主義を指摘することができます。このような風潮の中、前段で触れたように個別の事象を針小棒大に、しかも面白おかしく取り上げるセンセーショナリズムが中国のメディア界では幅を利かせています。第二に、こと日本問題となると過激な報道(いわゆる反日報道)も許されるというある種の暗黙の了解が、中国社会には確かに存在していることです。こうした土壌の形成にあたっては、中国側は否定していますが、当局によって進められている愛国主義教育が無視し得ない影響を及ぼしているのだと私は考えます。一つの例を紹介しましょう。中国では1994年、「愛国主義実施綱要」なるものが出されました。共産党中央宣伝部の作成によるこの文書は、一言で形容すると、「愛国主義にあふれる中国国民育成のためのガイドライン」なのですが、ここでは「小学校三年生以上の国民に国歌の意味を理解させる」ような教育を行うよう、関係各機関に求めています。「立ち上がれ、奴隷に身をやつすことを拒む人々よ!」で始まるこの国歌、正式名称は「義勇軍行進曲」と言いますが、元々は抗日歌曲でした。歌い続けるうちに、知らず知らずと反日的思考が植えつけられるのも無理からぬことなのだと思います。

 

 サッカーの国際試合という、本来ならば相互の友好を確認し、また増進すべきイベントがきっかけとなって、逆に国民レベルでの嫌悪感を互いに増幅させてしまった感のある日中関係。一体どうしたらこのような局面を打破することができるのでしょうか。それはひとえに、「反日」の背景を正しく理解することから始めなければならないのだと思います。

 

 私は、反日ととらえられても仕方のないような教育が中国で行われるのは「むしろ当然」とすら考えています。決して「けしからん」といった類のことではないのです。なぜなら、「わが党を中心とする愛国勢力が侵略者日本を打倒し、やがては新中国を打ち立てた」との歴史観に立つ中国共産党にとって、「反日教育」は正統性の礎だからです。従って、共産党が政権を握っている限り、このような教育は確実に継続されるでしょう。我々は、こうしたお国の事情を前提に、友好関係を構築していかねばならないのです。ただ同時に、社会が多元化し、価値観の多様化が進む中国では、日本に全く無関心な人々も多数存在し、反日或いは無関心どころか、日本のポップカルチャーに親近感を抱く人々が若年層を中心に誕生しつつあるという、もう一つの実像も認識しておく必要があります。都市部では日本のアニメキャラクターを真似たコスプレ族も少なくありません。これは、日中関係を再構築する際のプラス要因たりうるものです。要するに我々には、感情論に走らない大人の対応と長い目でのお付き合いが求められているのです。

 

 共産党指導部の世代交代が実現した直後の一昨年末から昨年初めにかけて、わが国では、日中関係の改善を目的に一部の中国人学者が主張する「対日新思考」に対し、強い期待感が表明されました。私の見るところ、彼らが主張する好意的な対日関係思考は中国の大衆レベルでは未だ主流となっていませんし、中国政府の方針でもありません。今後主流となり、或いは基本方針として採用されるにしても、かなり長期的なスパンで見ていく必要があると思います。ただ、歴史問題を全面・前面に押し立てて改善を迫るという従来の硬直的思考とは確かに異なった、新たな胎動のようなものを私は感じています。時殷弘・中国人民大学教授は、「日本には(中日関係)改善の意欲がなく、中国には改善の勇気がない」と述べています。また、馮昭奎・中国社会科学院研究員は、「歴史問題で中国側に一方的な譲歩を求めるのは現実的でないが、歴史問題が中日関係の全てではない」としています。二人の主張に共通するのは「喧嘩両成敗」的発想です。先日、馮氏に会った際、「対日新思考の代表者と呼ばれることに違和感はありませんか、国内で肩身の狭い思いをしていませんか」と訊ねましたが、氏は「それほど強いプレッシャーは感じていません」と言っていました。

 

 さて、翻って我々日本側についてですが、同様に「対中新思考」が求められているのだと思います。国民レベルでは上述の通り、中国の実情を理解した上での現実的対応が必要です。政府レベルでは、やはり、小泉総理の靖国神社参拝問題ということになります。私は、靖国参拝自体が批判に値することだとは実は思っていません。外交は内政の延長という主張には一理あります。私が問題視しているのは、靖国を参拝すること(或いはしないこと)が日本政府の基本政策として確立されていない点です。同じ自民党であっても、小泉総理の後任が靖国神社を参拝する可能性は非常に低いでしょう。だとすると、このような「一貫性の欠如」或いは「先行き不透明感」がある限り、中国政府のみならず日本政府としても、関係改善・発展の青写真を描くことはできません。次に、「靖国参拝は止めてくれ」という相手(中国と韓国)がいるにもかかわらず、そうした不安や不信感を払拭するための努力が余りなされていないことです。相手のパーセプションを無視し、勝手な解釈をしている限り、関係発展はありえません。国際社会における中国の地位が今後ますます高まっていくであろうことを考えると、「日中は運命共同体」という認識が官民共にこれまで以上に求められています。